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2012.04.16|categories: blog

accept loss forever

cherry.jpg

春宵一刻。

よしなしごとに忙殺され、少なくとも月に一篇はとひそかに決め、これまでなんとか
守ってきた矜持も、あっけなく崩れ去り、けっきょく3月は、霧散。

「忙」と呼ぶにはあまりにものんびりした話だと思うけれど、どうもその一因が、twitter
とかFacebookといったネットワーク・サービスにあるんじゃないかと思いあたった。

そもそも、おそらく中毒と行ってもいいくらい活字を読むということに憑かれていて、
それが嵩じて今のような有り様になっているわけだから、たとえそれが本の体裁を
もっていなくても、モニターの上で展開される、人間の悲喜こもごもの筆跡を盗み見
ることが面白くないわけがない。

もちろん大人としてやらなければならない日々のあれこれは、どうあろうとやらなけ
ればならないわけだから、さらにやりたいことがそこに加われば、一日が24時間で
あることに抗いようもなく、自ず睡眠という無為に思える(それは決してそうではない
のだが)時間や、やりたいけれどやらなくてもいいことを、マゾヒスティックに削って
いくしかない。

これじゃあ、ゲームに時間を取られて机に向かわない子供と同じじゃないかと思うと、
60もそれほど遠くない我が身の拙さにあきれるばかり。

いずれにしても、愉悦的ななしくずしではなく、そろそろちゃんとしたattitudeを定める
時期なのかもしれないなんて思ったりもする。

そんなSNSも、じつは去年の震災の時期から比べると様相が一変していて、そのとき
にはひとつの大きな情報のソースになり、ソシアル・ネットワークの主役になるかと思
われたtwitterが少し翳りをみせ、ブーム的に到来したFacebookの優位性が(パーマ
ネントなものになるかどうかはよくわからないが)、このところ際立ってきているようだ。

その理由はいくつかあると思うけれど、人の心をいちばんつかんでいるのは、twitter
にはない、「いいね!」という意思表明がワンクリックでできて、その数が表示される
機能じゃないかと思う。

Facebookがマニュアルで言っているように、それが双方向のコミュニケーションである
かどうかは疑問だが、この「いいね!が、個人レベルでは投稿のひとつのモチベーショ
ンになっているようだし、ビジネスシーンでは、ダイレクトマーケティングに直結するこの
システムを、いかに利用するかということがひとつのテーマになっていて、広告代理店
がやっきになって、その獲得方法をアピールしている。

「tweet」を「つぶやき」とした訳語も絶妙だったと思うけれど、「Like」という英語を、ふだ
んめったに使うことのない(特に関西ではそうだろう)「いいね!」というシンボリックな言
葉(そして原語にはなかった「!」も含めて)で表現したその手腕は、ある種の凄みさえ
感じさせる。

おそらくこのサービスを日本で展開するときにもっとも考え抜かれたのは、これだったん
じゃないだろうかと思えるくらい見事な翻案で、今となっては、それ以外に、あのちょっと
した共感を示す表現はあり得ないと思えるくらいだ。

そんな「いいね!」の海を泳いでいるうちに、ちょっと面白い記事に行き当たった。

あの「The Henry Miller Memorial Library」のfacebookページからである。

少し前に “Henry Miller’s 11 commandments on writing (書くことのための11の戒律) ”
という記事が掲載されていて、それはそれでとても興味深いものだったけれど、今回の
それは、ケルアックが遺した” Belief and Technique for Modern Prose(現代散文のた
めの心構えとテクニック) ” という30のリストだった。

面白そうな文章だったので、拙いながら訳してみた。

<現代散文のための心構えとテクニック by Jack Kerouac>

1. 書き散らされた秘密のノート、乱雑にタイプで打ったページ、自分の愉しみとして。
Scribbled secret notebooks, and wild typewritten pages, for yr own joy

2. あらゆることに素直であれ、心を開き、耳を傾けよ。
Submissive to everything, open, listening

3. 自分の家以外では酔っぱらわないように。
Try never get drunk outside yr own house

4. 人生に恋しよう。
Be in love with yr life

5. 感じていることは、いずれカタチを見いだす。
Something that you feel will find its own form

6. クレイジーであれ、愚かな聖者の心で。
Be crazy dumbsaint of the mind

7. 吹きたいだけ深く吹け。
Blow as deep as you want to blow

8. 心の底から底抜けに書きたいものだけを書け。
Write what you want bottomless from bottom of the mind

9. 話すことでは表現できないひとつひとつのヴィジョン。
The unspeakable visions of the individual

10. 正鵠を得れば、詩の出る幕はない。
No time for poetry but exactly what is

11. 胸の奥で震えている幻想的な痙攣。
Visionary tics shivering in the chest

12. 眼の前にあるの物体に覆いかぶさる催眠的な偏執夢。
In tranced fixation dreaming upon object before you

13. 文学的、文法的、構文的なんてものを追っ払え。
Remove literary, grammatical and syntactical inhibition

14. プルーストのように、時の古茶頭であれ。
Like Proust be an old teahead of time

15. 内なるつぶやきで世界の実話を語ること。
Telling the true story of the world in interior monolog

16. とびきり面白い宝石は、眼のなかの眼にある。
The jewel center of interest is the eye within the eye

17. 自分自身の記憶と驚きで書くべし。
Write in recollection and amazement for yourself

18. 言葉の海で泳ぎながら、力強い真ん中の眼で練り上げろ。
Work from pithy middle eye out, swimming in language sea

19. 失うことを永遠に受け入れよ。
Accept loss forever

20. いのちの清らかなる輪郭を信じるべし
Believe in the holy contour of life。

21. 心にある無垢な流れをスケッチするためにもがけ。
Struggle to sketch the flow that already exists intact in mind

22. 止まっている時は言葉のことを考えず、その像をただ見つめなさい。
Dont think of words when you stop but to see picture better

23. 朝に日付を刻みながら毎日を送れ。
Keep track of every day the date emblazoned in yr morning

24. 自分の経験や言葉や知識の気高さを、怖がったり恥ずかしがったりすることはない。
No fear or shame in the dignity of yr experience, language & knowledge

25. 克明に描いたものを、世界に見せ、読ませるために書くんだ。
Write for the world to read and see yr exact pictures of it

26. “ブックムービー” は言葉の映画、目に見えるアメリカの形。
Bookmovie is the movie in words, the visual American form

27. 寒々として非人間的な孤独の中の個性を賞賛し。
In praise of Character in the Bleak inhuman Loneliness

28. 野性的に、野放図に、純粋に、下からくるもので創作すること、狂っていればなお良し。
Composing wild, indisciplined, pure, coming in from under, crazier the better

29. きみはいついかなるときにも天才だ。
You’re a Genius all the time

30. 天の加護と援助を受けたこの世の映画の脚本家であり監督。
Writer-Director of Earthly movies Sponsored & Angeled in Heaven

その記事によると、このリストは、あの『Howl』が書かれる1年前に、サンフランシスコ
のノースビーチのアレン・ギンズバーグのホテルの部屋の壁にピンナップされていた
ものだという都市伝説があるそうで、ケルアックの「On The Road」とならんで、ビート
ジェネレーションのアイコンとされている詩集『叫ぶ』が、このリストに触発されたのか
もしれないと想像するだけでも、それは充分にスリリングな話じゃないかと思う。

もともと『Howl』というタイトルそのものもケルアックのアイデアのようで、「その詩集に
はケルアックへの献辞があるくらいだから、もしその伝説がほんとうにそうだったとし
てもぜんぜん驚きではない」と、この記事には記されている。

そして、この紹介文は、「チャールズ・イームズが言うように、” 実際のところ、人は先
に亡くなった人たちの影響を常に認めなければなりません(to be realistic one must
always admit the influence of those who have gone before)” 」と、結ばれている。

例によってケルアックのフリージャズのような英語は、シンプルなのに難解で、ホント
にその意をちゃんと汲めたのかどうかさえわからないが、ただわからないなりに、口に
出して何回も読み上げていると、なんとなくリズムがでてきて、わかったような気にな
ってくるから不思議なものだ。

言霊っていうヤツかもしれない。

ただ言葉というのは、その時代、その場所で変化していくものだから、たとえば “dignity”
という単語を、尊厳と訳すべきなのか、価値と訳すべきなのかなのか、あるいはひょっと
したらもっといい言葉があるんじゃないかとか、言葉の意味はわかっても、微妙なニュア
ンスをリアルに感じとれないのがちょっと残念。

ケルアックは本質的には、小説家ではなく詩人ではないかというのが、ぼくの見立てだが、
彼のこの30の散文指南も、こうやって眺めていると、すでに一篇の詩のようだ。

あるいは俳句。

 

http://kotobanoie.com/
graf shop / the nature library – animals

 

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2012.02.25|categories: blog

where design comes from

glass2.JPG

そのフロアの奥の、白いペンキで塗られた10cmほどの水道管に、 plants, animals,
ocean, space, earth という五つのテーマを極太の鉛筆で書き終えたとき、それを
見ていた服部さんから、サインもしといてくださいよ、という声がかかり、本棚の左の
壁に kotobanoie と、書き添えた。

ああ、 the natural library というタイトルを書いたほうがよかったなと気がついたのは、
翌朝の布団の中で、そういえばこのライブラリーのアイデアが浮かんだのも起きぬけ
だったなあと、ふと思いだした。

” the natural library “

graf shop で始まった新しいプロジェクト。

それはpop up なイベントではなく、「まちのえんがわ」と同じように、本というメディアで、
なにかひとつの世界を切りとれないかという、ある意味パーマネントな試みである。

少しタイトルが大きすぎるような気がしないでもないが、自然にまつわる本が集まって
いるからストレートに nature 、 library は、あの”The Henry Miller library ” の library。

もちろん本にはすべてプライスタグがつけてある。

コンテンツだけじゃなく、立体としても素敵だと思えるような本を集めて、
その場で読むもよし、その本を連れて帰りたくなったらそれもよし、というスタイルだ。

「自然(nature)」というテーマにも、ストーリーがある。

「本をやってみたいと思うんですけど」
と、小松くんがきりだしたのは、10月の「木村家本舗」のある日だった。

「たとえばバウハウスとか柳宗悦の民藝とか、ぼくたちが造るプロダクツの底に
流れているデザインの潮流がわかるような」

そういう本を、graf の ブックシェルフに並べて、販売もしたいというオファーである。

そのときはとっさに、

「そのもうひとつ手前の、それらのデザインが『拠って来たるところ』っていう感じの
ほうが面白いような気がするけど」

と返してはみたものの、その『拠って来たるところ』というのがなんなのか、じつは
そのときにはまったく視えていなかった。

ただなんとなく、そんな言葉がでてしまったのだ。

拠って来たるところ - そのわかったようなわからないような言葉の底になにが眠って
いるのか、まるでわからないまままに時間が過ぎて、「自然(nature)」というキーワード
が見つかったのは、その話から何日もあとのこと、そういうものがいつもそうであるように、
予兆もなく、突然舞い降りてきた。ある天気のよい日曜の朝、起き抜けのベッドの上に。

花や鳥や雲や海や月。

よく考えてみれば、当たり前といえば当たり前のことで、ひらめきというには恥ずかしい
レベルのことだけれど、すべてのデザイン(アートもかな)の根源、「拠って来るところ」
って、そういう自然の造形や、眼に見えない自然の力なんじゃないかと思い浮かんだのだ。

キーワードが見つかると、あとは早い。

具体的には、「花」なら花の画集や写真集だけでなく、たとえば花札や「花の色はうつりに
けりな」の西行のことや、フラワームーブメントに関わる本などを展示販売すること。

できれば、漢字一文字でテーマ決めて、1年間のストーリーをつくる。

タイトルは 「nature : where design comes from」

そしてそれは、なんとなくgraf的な感じもする。

きっとその前の日のトークショーで服部さんが言っていた「ピュアなものを見つけ出す」という
話が、どこか頭の片隅に残ってたのかもしれないと、今になって思ったり。

その後 graf のスタッフたちと、何回かのセッションを繰り返してたどりついたのが、この
” the nature library ” というカタチだが、最初にセレクトした107冊のブックリストを眺めて
いると、文字どおり最初のアイデアをけっこうピュアなカタチで表現できたのではないかと、
ちょっとだけ悦に入った。

イツオくんとふたりで、こんなコピーをつくった。

未だ知ることのない
自然からの語りかけに心を澄まし
想像の先にある発見と出会う

the nature library

植物、動物、海、宇宙、そして地球
五つのテーマを手がかりにめぐる、森羅万象への旅

本を片手に

第一弾のテーマは ” plants ”

花や葉っぱのフォルム、素材としての木や恵みとしての果実、アールヌーボーや
リバティプリント、光琳の描く花や伝統的な花のしつらい、植物による造形そして
哲学としての庭。

植物は、あらゆるデザインやクリエイションの、まさにひとつの源泉である。

物語は、このあと animals → ocean と続く。

ふりかえれば、本を売らない本屋のことを妄想したのは、いまから5年前、この
” books+kotobanoie ” というブックショップを始めた直後のことだった。

そのころ、” unexpectedly a serious ” というタイトルのブログで、こんな風に書いている。
「ブック・コーディネーター」なんていう人が現れる少し前の話だ。

本のセレクションというサービスができないかと思う。Amazonのセレクション・ソフトは、
情報の集積がベースだけれど、このソフトをもう少し繊細なものにして、人と人との
インターフェイスの中からでてくる直感的なセレクションを提供する。
司書的なものでもキュレーター的なものでも、まして書店でもなく、いわば「本の Stylist」
とでもいったようなものだ。

そこに書かれている内容だけじゃなく、ブックデザインや組合わせも含めたセレクションで、
そこに在ること自体がそのスペースやそのショップやその人の表現となるような本棚を
デザインすること。

たとえば素敵なライブラリーのあるリゾートホテル、週刊誌や新聞だけじゃない歯医者さん、
美しい装丁の写真集が並んでいるブティック、エバーグリーンな随筆の置いてある輸入車
ディーラー、付加価値や差別化がマーケティングのキーワードとなっている時代に、本という
ものが(単にディスプレイとしてだけじゃなく)、そのひとつのマティリアルになることがあった
っていいんじゃないだろうか。

professional of book selection ― 。

Yさんじゃないけれど、案外真面目に、本を売らない本屋を妄想している。

その妄想がこんな風に少しずつカタチになっていく。

望外とは、このことじゃないかと思う。

本棚の爆弾。

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graf shop / the nature library

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2012.01.04|categories: blog

greening 2012

greening3.JPG

明けましておめでとうございます。

2011年は、ほんとうにたくさんの人たちとお会いし、人と人のつながりの不思議さを、
いつもよりも強く感じさせられた年でした。

そのひとりひとりの人たちに、感謝の気持ちをこめて、新年のご挨拶を。

“TheGreening of America(邦題:緑色革命)” という1970年に発刊された一冊の本
があって、若いころのぼくは、その本、というかその本に描かれていたアメリカ西海岸
のカウンターカルチャーなるものに、ずいぶん惹かれていました。

60年代に起こった新しい意識の動き。

それは、それまでの社会と人間との関係に疑問をいだき、自分自身、他人、社会、
自然、国土などにたいする新しい関係を創造しようというものでした。

社会のメインフレーム依存しない自立した生きかた。

“greening”というのは、そのころ芽生えたそういう新しい価値観をもった世代のことであり、
そういう変革の現象にたいして著者である、チャールズ・ライクが名づけた言葉です。

結果的には、この若者のムーブメントは、大人たちの体制や商業主義を突き崩すことは
できなかったわけですが、たとえば今もてはやされているエコロジーやオーガニックや、
サスティナビリティなんていう環境にまつわるさまざまなこと、そして人種やジェンダーや、
性的嗜好による偏見のない自由な選挙や、いわゆる無党派といった現代社会の良質な
概念のほとんどのものが、この時代の若者たちの思想の上澄みにしかすぎないように、
ぼくには映っています。

そして昨今しきりに議論されるコミュニティのデザイン、ひょっとしたらこのインターネット
だって、このムーブメントがなければ何年も遅れていたのかもしれないとさえ思います。

去年亡くなったスティーブ・ジョブズは、ぼくと年が同じで、しかもこの「騒乱」の中心地
だったサンフランシスコのベイエリアの人ですから、たぶんもっと強烈に、この意識の
影響を受けていた人だったはずで、彼の指向した「パーソナル・コンピュータ」の概念
そのものが、「新しい意識をもった新しいコミュニティ」への道しるべであろうとした
” Whole Earth Catalog ” の、「access to tools」というコンセプトの今日的表現だと
考えれば、彼がその本から引用した ” stay hungry, stay foolish “という言葉の意味が、
より鮮明に見えてきます。

「三つ子の魂百まで」ではないですが、昨年の東北大震災や原発の事故を契機として、
成長や拡大じゃない共生(share + re-size)ということを模索する中で、もういちどこの
自分にとっての原点に還ることも悪くないんじゃないか、というのが、”greening”という
言葉にこめたメッセージです。

ぼくにとっての greening は、種を蒔くことです。

本にできること、本にはできないことを考えたとき、意識の種を読んだ人の心に蒔くという
ことが本の役割であり、その本の編集を生業とするものの仕事ではないのかと思います。

その種が、あなたの土壌に合えば、それはやがて芽をだします。
芽がでたら、しっかりと水をやってください。
毎日うまく水をやることができれば、やがて花が咲きます。

きれいな花が咲けば、あなた自身がきれいだと発信しなくても、それを見た人が、あそこに
きれいな花が咲いていたよと、つぶやいたり、写真を撮って帰ったり。

そんなことを、初夢で妄想しました。

For what it worth.

年始の挨拶なので、もう少しシンプルに書きたいと思っていたのですが、気がつくと、
いつものように、だらだらとしたものになってしまいました。

まあ、正月ということで、お赦しください。

今年もよろしく。

BOOKS+コトバノイエ

店主敬白

 

 

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2011.12.25|categories: blog

drowning in photography

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ゆっくりと本を読む間もないような10月や11月は、文字どおり光陰のごとく去って、
12月に入っても、その流れがいっこうにおさまる気配はないまま、すでに年の暮れ。

このブックストアを始めたときに考えていたことが、少しずつその輪郭を見せはじめ、
それはそれでひどく嬉しいことには違いないが、もう一方でのんびりとしたそれまで
の日々を、少し懐かしく感じている自分がいる。

確かに本を買う数は増え、大きい本も躊躇せず手にとれるようにもなったけれど、
果たしてそれが本望なのかという囁きも、つねに頭の中に響いている。

写真のことをもう一度考え出したのは、木村家本舗の写真展「tri-angle」で、ある
作品を購入したのがきっかけだった。

去年の、『Herb & Drothy』的な快感が燠火のように残っていたのかもしれないが、
展示されていたものではなく、多田ユウコさんのポートフォリオに収められたその
写真を眺めているうちに、なんとなくその気になってしまったのだ。

ポートフォリオで見たときよりも引き伸ばされ、アクリルのフレームで額装されたその
作品を壁に掛けたとき、絵画ではなく、どうして写真というものにこんなに惹かれる
のだろうと、ちょっと不思議な気分になって、いつも本棚にあるのにずっと読めないで
いたある写真の本を手にとった。

□ 写真の時代 – AGE OF PHOTOGRAPHY   富岡多恵子  毎日新聞社   19790115

じつはこの本、これまでにもう何冊も買っている。

もともと彼女の詩や小説が好きなこともあって、おそらくその独特の視線で編まれた
であろう写真論に興味があり入手した本だが、それを読む間もなく、買うたびに売れ、
売れるたびに買い、ということを何回か繰り返していた一冊で、やっとそういう成り行き
になったのだった。

写真の批評ということでいうと、ソンタグの「写真論( on photography)」とバルトの
「明るい部屋(La Chambre Claire)」が、その白眉とされていて、確かに20世紀を
代表する批評家たちが書いたその写真論は名著と呼んでもいいものだと思うけれど、
この写真の国の作家が書いた時評も、そういう強面の評論とまったく遜色はない。

今から30年以上も前の文章だが、すべての良質の批評がそうであるように、時を
経てもその鮮度にまったく翳りはなく、むしろカメラというものが日常になり、写真が
光学から電子工学になった時代だからこそ、彼女の写真の本質に迫るその視線が
より鮮やかに心に迫り、この人を写真と対峙させた山岸章二という編集者の慧眼に、
あらためて感心させられる。

少し長くなるが引用する。
冒頭の「キカイの自立性」という一章からのものだ。

複製こそがアートであるというより、アートが複製である現代、写真のほうがはっきりと
アートよりおもしろいのである。ところが写真が今なお絵画をあこがれ、絵画を追いかけて
いるところがあるのは不思議千万である。もっとも、写真はいかなる立体空間も、キカイと
いうもので平面にしてしまう作業ともいえるから、平面の絵画からふっきれにくいのかもし
れない。しかし、立体を平面にするのはキカイであって、写真の写し手ではないのである。

はたしてカメラは、なにかを表現し得るキカイなのだろうか。もしカメラの近辺に表現者が
いるとしたら、カメラをもっている方ではなくて、カメラの向こう側にる生きものか、あるいは
モノや無限の立体空間ではないだろうか。 それが、カメラというキカイによって、一枚の
限定された平面にされた時、そこに情緒を、モノや生きもののマチエールを、存在感覚を、
時には写した人間の思想までも期待し、また読みとろうと考えるのは、絵画から切れて
いないというしかない。写真の出現は、絵画の表現を徹底してぶちこわしたものでは
なかったのか。

なぜこんなに、だれもかれもがたかが写真で(といってもけっして写真を軽蔑しているの
ではなく、むしろ反対の意味である)作品をつくろうとするのであろうか。芸術も、たかが
ゲイジュツであって、またそこから出発しなければならなくなっている苦しい時代に、なぜ
安穏と作品をつくっておれるのであろうか。

このいきなりの一撃で惹き込まれ、この本がベッドルームからリビングに格上げになった。
こんな文章を寝酒がわりにできるはずがない。

11月にアンドレアス・グルスキーの「Rhine II」という写真作品が、NYのクリスティーズで
3億円以上(430万ドル)で落札され、「あれってただの河川敷の写真じゃないのか」
とか、「前例のないスケールである上に、傑出した印刷技術を駆使し、色使いと”肌理”
が絵画に匹敵する」といった話がネット上でとびかったが、写真の作品性ということに
対しても、作家の「犯罪意識」という言葉をキーワードにしてこんな風に書いている。

写真の場合も、アマチュアの楽しみとか、コマーシャルのためのものではなく。作家としての
意識のあるなしは、結局、犯行意識のあるなしではないかと思ったりする。この犯行意識が、
作家の暗闇を広げ、また深め重くして、暗闇の色を濃くしているのではないだろうか。写真が、
作品かどうかは写真作家の暗闇の影の濃淡に他ならない。そしてそれが、小説における
文体ならぬ、写真の写体というか映体というか、個人のスタイルというものではないのだろうか。
—- 小説が大説でなくあくまで小説であるように、写真はあくまで写す人間によって出現する
一瞬の闇であるはずだ。

あるいはタイトルやキャプションについて。

写真は絵よりも、具象であるといえば具象であり、具体的であり、現実的である。絵における
抽象と写真における抽象とは別のものであり、このコンセプトも異なる。写真は、見ればわか
るし、また、見てわからぬものを、写真は撮れない。その見ればわかるものに、なぜ題をつけ
るのだろうか。
— 本来、写真の場合は、番号に近い記号性を題に依存するにとどめて、なるべく写真につ
いては喋らぬ方がいいように思える。そうでないと、写真というものの自立性が失われる。
ハッキリいうと、写真がものをいっていないのに、それを撮った人間がものをいっても仕方が
ないのである。写真は、いっさいの手助けなくて、そこにあったほうがいい。逆にいえば、コト
バの説明を必要とするような写真は、それだけ写真の力が弱いということにもなる。

そして、いかにもそれらしい写真、それを撮る写真家への痛烈な嫌味。

自動焦点カメラのごときものが出現してくると、ナニを撮るかが問題になるのであり、さらに、
撮影者がどういうところに、どのように生きているかで、写真が決まってくる。写真家が写真
家的に生きておれば写真家的写真しか撮れない。わたしは、当節流行のクロスオーバーな
んて嘘らしいものは信じないから、写真家の写真、小説家の小説を好むけれど、写真家的
写真にはうんざりする。自動焦点カメラのごときものがあらわれたからこそ、写真トハ何ゾヤ
という問いとそのコンセプトが、結局いつも写真家を動かし、写真家の態度と思想と写真を
決めていく。

あくまでも素人だからといいながら、写真というものの現代社会での存在価値と、文学
とも共通する創作の深淵というところに、いかにも女性らしく、あるいは富岡多恵子らしく、
躊躇なく斬りこんでいる。

写真は、一瞬の時を定着し、変わらない。
生きている人間の意識は常に動いていて、定着されたはずの一瞬も、その揺れ動く
意識とともに見えかたが変わる。

庭に石をおいたとき、変わらないことが石の面白さだと、庭師が教えてくれた。  

変わらないものは変わりゆくものを映す鏡のようなものだから、 この石が、日々移ろう
草や木や花を、そして変わっていく自分を見守ってくれるかもしれない。  

そのときそんな風に書いたけれど、写真もこの庭石と同じなんだろうか。

真っ白なキャンバスから描かれたものではなく、在るもの(在ったもの)を、文字通り
そのまま写しとられた画に惹かれるのは、つまりうつろう自分の姿を確かめるためなのか。

いずれにしても、その存在感は、写真集を眺めているのとは比べものにならないほど大きい。

壁に掛けた写真のモチーフが、去年は川、そして今年はプールと、無意識のうちに「水」を
テーマ選んでいたことに、ふと気がついて、自分の中にある流体萌えをあらためて思い知る。

となると、来年は「海」か。

クリスマスイブ、そして有馬記念前夜に。

To The Glory.

*

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2011.11.15|categories: blog

no particular reason

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「橋本図書室」が終われば、こんどは本家。

久しぶりに実家に帰った本たちを本棚に戻し、ゆっくりと。

□ 特段の理由のないオープン・コトバノイエ  

川西の山裾に小さな平屋の家を建てて、この12月で6年になります。
矢部達也さんに設計していただいたこの「コトバノイエ」のおかげで、
家族4人がとても心地良い日々を過ごし、ぼくは古本屋をやっています。

先日の「木村家本舗」という催しで、多くの人たちから訪ねたいという
ご希望をいただき、本格的に寒くなる前に見ていただこうと考えました。

そこでオープンハウス。

まあ、小さな宴でも、というところです。

晩秋の一日を、コトバノイエでお過ごしいただければと思っています。

もちろん、本もたくさんあります。

Nov.15 2011
BOOKS+コトバノイエ    店主敬白

加藤博久
https://www.kotobanoie.com/
books@kotobanoie.com

* 駐車場がありませんので、お車の方は、駅前のコインパーキングにお停めください。

 

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