ゆっくりと本を読む間もないような10月や11月は、文字どおり光陰のごとく去って、12月に入っても、その流れがいっこうにおさまる気配はないまま、すでに年の暮れ。
このブックストアを始めたときに考えていたことが、少しずつその輪郭を見せはじめ、それはそれでひどく嬉しいことには違いないが、もう一方でのんびりとしたそれまでの日々を、少し懐かしく感じている自分がいる。
確かに本を買う数は増え、大きい本も躊躇せず手にとれるようにもなったけれど、果たしてそれが本望なのかという囁きも、つねに頭の中に響いている。
写真のことをもう一度考え出したのは、木村家本舗の写真展「tri-angle」で、ある作品を購入したのがきっかけだった。
去年の、『Herb & Drothy』的な快感が燠火のように残っていたのかもしれないが、展示されていたものではなく、多田ユウコさんのポートフォリオに収められたその写真を眺めているうちに、なんとなくその気になってしまったのだ。
ポートフォリオで見たときよりも引き伸ばされ、アクリルのフレームで額装されたその作品を壁に掛けたとき、絵画ではなく、どうして写真というものにこんなに惹かれるのだろうと、ちょっと不思議な気分になって、いつも本棚にあるのにずっと読めないでいたある写真の本を手にとった。
□ 写真の時代 – AGE OF PHOTOGRAPHY 富岡多恵子 毎日新聞社 19790115
じつはこの本、これまでにもう何冊も買っている。
もともと彼女の詩や小説が好きなこともあって、おそらくその独特の視線で編まれたであろう写真論に興味があり入手した本だが、それを読む間もなく、買うたびに売れ、売れるたびに買い、ということを何回か繰り返していた一冊で、やっとそういう成り行きになったのだった。
写真の批評ということでいうと、ソンタグの「写真論( on photography)」とバルトの「明るい部屋(La Chambre Claire)」が、その白眉とされていて、確かに20世紀を代表する批評家たちが書いたその写真論は名著と呼んでもいいものだと思うけれど、この写真の国の作家が書いた時評も、そういう強面の評論とまったく遜色はない。
今から30年以上も前の文章だが、すべての良質の批評がそうであるように、時を経てもその鮮度にまったく翳りはなく、むしろカメラというものが日常になり、写真が光学から電子工学になった時代だからこそ、彼女の写真の本質に迫るその視線がより鮮やかに心に迫り、この人を写真と対峙させた山岸章二という編集者の慧眼に、あらためて感心させられる。
少し長くなるが引用する。
冒頭の「キカイの自立性」という一章からのものだ。
複製こそがアートであるというより、アートが複製である現代、写真のほうがはっきりとアートよりおもしろいのである。ところが写真が今なお絵画をあこがれ、絵画を追いかけているところがあるのは不思議千万である。もっとも、写真はいかなる立体空間も、キカイというもので平面にしてしまう作業ともいえるから、平面の絵画からふっきれにくいのかもしれない。しかし、立体を平面にするのはキカイであって、写真の写し手ではないのである。
はたしてカメラは、なにかを表現し得るキカイなのだろうか。もしカメラの近辺に表現者がいるとしたら、カメラをもっている方ではなくて、カメラの向こう側にる生きものか、あるいはモノや無限の立体空間ではないだろうか。 それが、カメラというキカイによって、一枚の限定された平面にされた時、そこに情緒を、モノや生きもののマチエールを、存在感覚を、時には写した人間の思想までも期待し、また読みとろうと考えるのは、絵画から切れていないというしかない。写真の出現は、絵画の表現を徹底してぶちこわしたものではなかったのか。
なぜこんなに、だれもかれもがたかが写真で(といってもけっして写真を軽蔑しているのではなく、むしろ反対の意味である)作品をつくろうとするのであろうか。芸術も、たかがゲイジュツであって、またそこから出発しなければならなくなっている苦しい時代に、なぜ安穏と作品をつくっておれるのであろうか。
このいきなりの一撃で惹き込まれ、この本がベッドルームからリビングに格上げになった。
こんな文章を寝酒がわりにできるはずがない。
11月にアンドレアス・グルスキーの「Rhine II」という写真作品が、NYのクリスティーズで3億円以上(430万ドル)で落札され、「あれってただの河川敷の写真じゃないのか」とか、「前例のないスケールである上に、傑出した印刷技術を駆使し、色使いと”肌理”が絵画に匹敵する」といった話がネット上でとびかったが、写真の作品性ということに対しても、作家の「犯罪意識」という言葉をキーワードにしてこんな風に書いている。
写真の場合も、アマチュアの楽しみとか、コマーシャルのためのものではなく。作家としての意識のあるなしは、結局、犯行意識のあるなしではないかと思ったりする。この犯行意識が、作家の暗闇を広げ、また深め重くして、暗闇の色を濃くしているのではないだろうか。写真が、作品かどうかは写真作家の暗闇の影の濃淡に他ならない。そしてそれが、小説における文体ならぬ、写真の写体というか映体というか、個人のスタイルというものではないのだろうか。
—- 小説が大説でなくあくまで小説であるように、写真はあくまで写す人間によって出現する一瞬の闇であるはずだ。
あるいはタイトルやキャプションについて。
写真は絵よりも、具象であるといえば具象であり、具体的であり、現実的である。絵における抽象と写真における抽象とは別のものであり、このコンセプトも異なる。写真は、見ればわかるし、また、見てわからぬものを、写真は撮れない。その見ればわかるものに、なぜ題をつけるのだろうか。
— 本来、写真の場合は、番号に近い記号性を題に依存するにとどめて、なるべく写真については喋らぬ方がいいように思える。そうでないと、写真というものの自立性が失われる。ハッキリいうと、写真がものをいっていないのに、それを撮った人間がものをいっても仕方がないのである。写真は、いっさいの手助けなくて、そこにあったほうがいい。逆にいえば、コトバの説明を必要とするような写真は、それだけ写真の力が弱いということにもなる。
そして、いかにもそれらしい写真、それを撮る写真家への痛烈な嫌味。
自動焦点カメラのごときものが出現してくると、ナニを撮るかが問題になるのであり、さらに、撮影者がどういうところに、どのように生きているかで、写真が決まってくる。写真家が写真家的に生きておれば写真家的写真しか撮れない。わたしは、当節流行のクロスオーバーなんて嘘らしいものは信じないから、写真家の写真、小説家の小説を好むけれど、写真家的写真にはうんざりする。自動焦点カメラのごときものがあらわれたからこそ、写真トハ何ゾヤという問いとそのコンセプトが、結局いつも写真家を動かし、写真家の態度と思想と写真を決めていく。
あくまでも素人だからといいながら、写真というものの現代社会での存在価値と、文学とも共通する創作の深淵というところに、いかにも女性らしく、あるいは富岡多恵子らしく、躊躇なく斬りこんでいる。
写真は、一瞬の時を定着し、変わらない。
生きている人間の意識は常に動いていて、定着されたはずの一瞬も、その揺れ動く意識とともに見えかたが変わる。
庭に石をおいたとき、変わらないことが石の面白さだと、庭師が教えてくれた。
変わらないものは変わりゆくものを映す鏡のようなものだから、 この石が、日々移ろう草や木や花を、そして変わっていく自分を見守ってくれるかもしれない。
そのときそんな風に書いたけれど、写真もこの庭石と同じなんだろうか。
真っ白なキャンバスから描かれたものではなく、在るもの(在ったもの)を、文字通りそのまま写しとられた画に惹かれるのは、つまりうつろう自分の姿を確かめるためなのか。
いずれにしても、その存在感は、写真集を眺めているのとは比べものにならないほど大きい。
壁に掛けた写真のモチーフが、去年は川、そして今年はプールと、無意識のうちに「水」をテーマ選んでいたことに、ふと気がついて、自分の中にある流体萌えをあらためて思い知る。
となると、来年は「海」か。
クリスマスイブ、そして有馬記念前夜に。
To The Glory.
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