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2009.01.10

the thing that is simple with ordinariness

brick&snow.JPG

去年いちばん良かったのは、
「快適じゃなければ、地球なんてなくなったっていいんだ」と、はっきり言えたことだ。

 

たぶんこの2009年に、これまで以上に加速度的に展開されるであろうエコ/グリーン・マーケティングの
ムーブメントに対して、「まずは自分にとって気持ちいいコトを考えることからしか、明るい未来ははじまら
ない」という、ひとつのモノサシが設定できたのはとても大きいことだったように思える。

 

エコロジーや地球環境にネガティブな気持ちを持っているわけじゃないけれど、それにまつわる phony な
ものや smell fishy  なことに、はっきりと NO ! といえるのは、やはり気持ちいがいい。

 

そんなことを考えながら年末の雑事を終えたら、司馬遼太郎が読みたくなった。
なんとなく、おそらく「激動」と後述されるだろうその年の初めにふさわしい気がしたのだ。

 

■ 春灯雑記     司馬遼太郎     朝日文庫      20000420 第7刷

 

「むろん小説ではなく、まして論文ではなく、述懐というべきものである。」

 

安っぽい政治家がよく愛読書として取り上げたるするから、イメージとしての司馬遼太郎にはスクエアな
印象がつきまとうけれど、実際に読んでみるとどの作品にも、大阪の人らしい軽みと反骨心が底に流れ
ているし、とにかくその「知」の容量に圧倒される。

 

巷間人気の高い歴史小説も、もちろんとても面白いんだけど(松陰を描いた「世に棲む日々」なんて最高
です)、エッセイや評論のまったりとした語り口は、柔らかな滋味にあふれていて、この本もおそらく既読
のはずだが、読み返すとあらためて様々な 想いにとらわれ、司馬さんの one and only を噛みしめること
になった。

 

臓器移植というテーマを、仏教の倫理感をとおして話しかける「心と形」
肥後細川家と東条英機の、ある関わりについての述懐「護貞氏の話」
スコットランドを旅しながら、その国の矜持について語る「仄かなスコットランド」
文明というものを語り、日本がステートとして自立することの覚悟を説いた「踏み出しますか」
英国的な duty の概念を語り、これからの日本のあるべき姿を示唆する「義務について」

 

この5つのタイトルに共通しているのは、司馬さんが思いめぐらせる、地球という共同体のなかでの日本
あるいは日本人のあるべき姿、といったようなことじゃないかと思うけれど、中でも最後の「義務について」
という一文は、とても印象深いものだった。

 

講演をベースにした文章なので口語体である。

 

「どこで居眠って下さってもいいように、のんきにお話ししようとおもっています。」

 

などと聴く人(読者も)を少し油断させながら、明治期の日本が世界の一員となるために「猿真似(=海外
文化を自ら輸入し自家薬籠中のものにすること)」からしか始められなかったこと、そしてそのために明治
の人たちが、江戸時代までの日本語をいったんご破算して、あたらしいコトバを造らざるを得なかったこと
(たとえば 「宗教」という言葉を、「religion」の訳語として発明したことなど)に言及し、この講演のテーマ
である「義務」という概念が、英国の「duty」からきていることまでをさりげなく「述懐」し、そしてさらに、この
「duty」が、プロテスタントとなった英国人の自律心(全体のなかにおいて、自分の役割を自分で考えると
いうこと)による発明(16世紀頃)であったことを、まるでミステリー小説の探偵のように、解き明かす。

 

「自分が自分できめた-全体の中で自分の役割を考え-自発的に”自分はこうあるべきだ”として、自分
に課した自分なりの拘束性、それが duty であったろうとおもいます。」

 

ノブレス・オブリッジ(noblesse oblige)を野暮だといいきり、責務(obligation)を語感がちがうと告げて、
duty という言葉を取り出し、再定義したのは、「個」の人である司馬さんの面目躍如たるところだろう。
noblesse oblige も obligation も、どちらかというとニュアンスとしては上から目線だからだ。

 

そしてこのロンドンでの講演をこのように、愛をこめて、締めくくる。

 

「最近(日本は)、やっと世界という共同体に対して、一人前であることの自覚を持ちました。オトナとして
は、まだ馴れない大人です。大人、一人前、世界の正会員(これは前章「踏み出しますか」からのテーマ
でもある)という意味は、世界や人類に対して義務感をもつかどうかということだけが、基準です。 政府
レベルだけが、世界に義務感をもつだけではオトナではないのです。日本人と名のつくひとびとが、一人
ずつ、世界という見えざる共同体に対して義務をもつという以外に、日本が生きのびていく道はありません。

中略

『そうすることが、私の義務ですから』と、ゆたかに、他者のための、あるいは公の利益のための自己犠牲
の量を湛えて存在している精神像以外に、資本主義を維持する倫理像はないように思うのです。
でなければ、資本主義は、巨大な凶器に化するおそれがあるとおおもいになりませんか。

人間も企業も、つねに得体が知れなければならない。それは、新鮮な果汁のようにたっぷりとした義務
という倫理をもっていることであります。」

 

箴言。

 

この文章は、1990年の講演に加筆して発表された(1996)ものだけれど、その後バブルを経た現在も、
日本人の心的状況は何一つ変わっていない、むしろ昨今のありさまとしては、「大人としての倫理」という
概念さえ消え去ってしまったように思える。

 

冒頭にあげたエコロジーに対するスタンスも、一人一人が個人として、この duty を意識することさえ
できれば、つまらない誰かの金もうけに加担しなくて済むはずなんだけれど。

 

このことを、「まことに平凡で素朴なこと」だとサラッといえる司馬遼太郎は、とても男前だと思う。

 

*

 

正月だからといって本棚が変わるわけではないけれど、おそらく一年でいちばん古本屋さんに人が集まる
時期だから、なんとなく華やかな気配が漂っている。

 

そのザワザワした正月の気配の中で、本を探すのもまたイイ感じなのだ。

 

■ 花森安治の編集室    唐澤平吉    晶文社   19970930 初版

 

机を並べた弟子が描く頑固者編集長の伝説と素顔。

 

面白いのは、花森安治が使う「装釘」という文字についての話だ。

 

「本の内容にふさわしい表紙を描き、扉をつけて、きちんと体裁をととのえるのは装訂ではない。作った
人間が釘(クギ)でしっかりとめなくてはいけない。書物はことばで作られた建築なんだ。だから装釘で
なくては魂がこもらないんだ。装丁など論外だ。ことばや文章にいのちをかける人間がつかう字ではない。
本を大切に考えるなら、釘の字ひとつもおろそかにしてはいけない」

 

書物がことばでつくられた建築というのは名言だとおもいますが、「釘」論はなんか無理があるような。

 

でもこれくらいの断言力がないと、個性的な雑誌はつくれないのかもしれません。
なんといっても雑誌は編集長の個性で動くものですから。

 

■ 陶芸の釉薬    大西政太郎    理工学社   19760825 第3刷

 

たぶん実際に焼きものをやったことがある人しかわからないだろうけれど、
釉薬は魔法そのものなんだ。

 

ただの灰や金属の泥漿が、炎をくぐり抜けることで宝石に変わる。
はじめてこの魔法に出合った原始の人の驚きはどんなものだったか。

 

炎の不思議を人の手でコントロールすることは不可能だし、それこそが焼きものの奥深さだけれど、
自分がもっているイメージに限りなく近づけることはできる。

 

釉薬の本として古典といわれているこの本はその教科書。
原理と基礎から応用と発展まで、プロアマ問わず必携の一冊じゃないかと思います。

 

専門書なので、「読む」本ではないのですが。

 

■ ハプワース16 一九二四        J.D.サリンジャー         荒地出版社     19831130  第5刷

 

公表されているサリンジャー最後の作品(1965)、つまりこれが最新作ということになる。
New Yorker に掲載された中篇だけれど、アメリカでは未だに単行本化が許可されていないそうだ。

 

バナナフィッシュの話を少女とした後、ホテルの一室で自らのこめかみを撃ち抜いたあのシーモアが、
7歳のとき、ハプワース湖のキャンプ場から両親に宛てて書いた長い手紙。

 

グラス・サーガは、けっきょくシーモア(see-more)の物語なのだと思う。

 

禅そのもののような長兄の不在。
末妹フラニーが、ある作品の中でうめくように呟いたコトバ、 「わたし、シーモアと話がしたい」

 

これがすべてだ。

 

亡くなったというニュースがないので、ニューハンプシャーでの隠遁生活を送っているのだろうが、
ホントに生きているならもう90歳だ。

 

シーモアの自死とサリンジャーの隠遁がクロスオーバーしているように思えてしかたがない。

 

■ やつらを喋りたおせ!    レニー・ブルース    晶文社    19931120 2版  

 

伝説のスタンダップ・コメディアン、というよりはカルト・ヒーローの自伝。
これを書いたあと、彼はハリウッドヒルズの自宅の洗面所で注射針を腕に残したまま独り逝った。 

 

スタンダップ・コメディは、アメリカ独特の笑芸で、漫談といわれるものとはニュアンスが違うように思う。
日本でいうとある時期の「ガキの使い」のダウンタウンの「フリートーク」がそういう雰囲気を持っていたし、
「Saturday Night Live」のジョン・ベルーシやエディ・マーフィーはあきらかに、この人を意識していた。

 

猥褻や麻薬の概念は、時代と場所で変わっていくものだから、50-60年代初めのアメリカで、この人の
HIP感が受け入れられなかったのはしかたないことだと思うし、繊細なアーティストがアンダーグラウンド
で居続けることに耐え切れないのもよくある話だけれど、ジャズ、道徳性、政治、愛国心、宗教、法律、
人種、KKK、教会、妊娠中絶、ドラッグ、こういったことすべてを一人のコメディアンが背負うことは、
やはり too much だったのだ。

 

彼の「笑い(=哀しみ)」の根源は、「Jewish(ユダヤ人)」であるということだったんじゃないかと思う。
アメリカで Jewish であることのホントの痛みは、とうていぼくたちにはわかり得ないけどね。

 

彼の生涯は1974年に「Lenny」というタイトルで映画化(「オール・ザット・ジャズ」のボブ・フォッシー
監督作品で、同年のアカデミー賞では「ゴッド・ファーザー2」に敗れた)されている。
主演ダスティン・ホフマン(彼も Jewish だ)のレニーは、一世一代のハマリ役でしょう。

 

原題「How to Talk Dirty and Influence People」、いくら藤本和子訳でも、この邦題はいかがなものか。
著者の意を曲解する権利は、編集者にも翻訳者にも与えられていない。

 

■ ROBERT MAPPLETHORPE Whitney Museum of American Art 1988 second printing

 

昨年2月最高裁の猥褻裁判で逆転勝訴した、いわば最高裁認定芸術写真集。

 

パティ・スミスの恋人、写真はモノクロ、エイズでの早世。

 

黒人の男性ヌードという素材のインパクトが強いので、「官能性」というところに耳目は集まりがちですが、
端正でバランスのとれた構図と完璧を求める美意識の高さが彼の写真の本質ではないかと思います。

 

写真がファインアートとして一般に認知されるようになったのは、この人の功績も大きいんじゃないかな。

 

大判の写真集を買うのはどんなときでもちょっとウレシイものだけれど、こういうビッグネームの良質の
作品集を、うまく手に入れられたときの気分はまた格別。

 

 

ことしのテーマは、「旅」です。
いろんなところにいって、いろんなものを買いたい。

 

*

 

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