平岡正明が逝った。
7月9日午前2時50分沒 享年68、たぶん戒名はない。
この訃報は、忌野清志郎やマイケル・ジャクソンのそれよりはるかに感慨深かった。
無頼が、知性の一形態であることを教えてくれたのはこの人だ。
知性は、二枚目段階から三枚目へ、さらに無頼へと、より高次なものになり、発展する。
「Popeye」 や 「Brutus 」のまえ、「話の特集」や「面白半分」といった ” 大人の ” サブ・カルチャー
雑誌に浸っていたころ読んだこの人の文章は、強烈な存在感をもっていた。
「文体」そのものが、ひとつのメッセージだということを意識したのは、この人の文章に接してから
じゃなかったかと思う。
数えてみたら、彼の本が本棚に24冊あった。
実家に置いてあるものや売れてしまったものを数えたらおそらく30冊以上は買っているだろう。
ほとんどが70-80年代の旧著。
最近はなんとなくフィットしなくなり(彼が変節したわけじゃないんだけれど)、新刊にはなかなか
手が伸びなくなって、古本屋でみかけても微妙な値段がついてるから、たまにしか買えなかった
けれど、それでも小林信彦や植草甚一や色川武大や田中小実昌や橋本治や白州正子や坂口
安吾や小林秀雄と同じように、「全部欲しい」ブックリストにはずっと入っている。
犯罪論・窮民革命・現代思想・アジア論・作家論・芸能・歌謡曲・ジャズ
おそらく100を越えるその著書のどれもに、あのシャイでアナーキーなグルーブが踊っているはずだ。
追悼として一冊買った。
■ ジャズ的 平岡正明 毎日新聞社 19970120 初版
「ジャズ屋えん」で撮影されたという、煙草をくわえた彼のちょっと物憂い表情をとらえたカバーが、
60年代あたりのジャズのレコードを思わせて、まさにジャズ的。
7月14日にジャケ買いしたその本を、珍しくその日に読み始めたら、
「7月14日、夜十時過ぎに『ダウンビート』に行くと、客はカウンターに三人いるだけで、」
と始まっていたので、ちょっとおどろいた。
例の coincidenceっていうやつだろう 、きっとマチャアキの魂に呼びよせられたにちがいない。
「ジャズ的」は、黒人のジャズのことを語った本だ。
たとえば、7月14日のパリ祭(フランス革命記念日)から、「私はジゴロ」というシャンソンのことに
話は流れ、セロニアス・モンクのリヴァーサイド盤の「ジャスト・ア・ジゴロ」の演奏の理解の深さへと
いきつく初章「梅雨明けのジゴロ」。
その章の結語では、彼のジャズへの理解が、鮮やかに示される。
今世紀の前半五十年は花の都は巴里であり、芸術は巴里を中心としたが、後半を紐育が奪ったのは、
合衆国にジャズマンがいたからである。なぜヨーロッパ文化の精髄をなしていた花の巴里の芸術を、
ジャズがもぐりこんで内側から奪ったか。黒人がいるからだ。ジャズは先進国心臓部への第三世界の
進駐軍だからである。
これが平岡正明。
モンク、ビリー・ホリディ、オスカー・ピーターソン、ジョニー・ホッジス、オーネット・コールマン、
ロリンズ、コルトレーン、そしてもちろんマイルス。
愛おしそうに黒人のミュージシャンと彼らのジャズを語る、その語り口。
この本には、彼の本にしてはめずらしく巻頭に「自序」が記されている。
本書の主題はジャズの美である。タイトルは「ジャズ的」でどうかって?
うーむ、「アンフォーゲッタブル」とか「夕陽に赤い帆」とか、ムードのあるやつがいいんだがなあ。
秋だぜ。俺だって枯れ葉を踏んで感傷に耽ったり、娘っこの目を潤ませることくらいやるよ。
ジャズ的ねえ・・・・・いや、これがいい。
夏の終わりに書きはじめて、いまおわった。
美というのは一気呵成にやるもんなんだ。五十日ほどかかったのは、ジャズより文字のほうが遅いんだ。
「ジャズより文字のほうが遅い」
これは比喩じゃない、一点突破のためのひとつのテーゼなのだ。
以前、彼のことをこんな風に書いた。
平岡正明は一刀両断の人だ。
その方法論は、直感的な、そして一見場違いと思えるようなテーゼをまず炸裂させ(たとえばそれは
「山口百恵は菩薩である」といった調子だ)、それを読むものの気持ちを揺さぶりながら、その強引な
断定へと至る放物線の軌跡を描写するといったスタイルで、それは評論というものの本質である
「事実性ではなく真実性を提示することで精神を活性化させること」への、ジャズ的なアプローチの
ように思える。
そして力まかせに(あるいは緻密に計算され)投げだされたそのテーゼは、それが異境的であれば
あるほど、ぼくたちの妄想を誘引する地雷となるわけで、平岡正明はそれを得意とするアジテーター
(扇動者)といってもいい。
そのまま。
どこかで生きていてくれるだけでよかったのに。
*
このごろの本買記
■ 居候匆々 内田百間 六興出版 19820227 初版
そもそも「匆々」という字が読めない。
「そうそう」という読みがわかって、辞書で引いたら、「あわただしいさま」とあった。
巻頭には、この人らしい文章で「作者の言葉」というのが記されている。
時事新報社の需めに応じて、本紙の夕刊に連載小説を執筆することになったが、新聞小説は
私にとって初めての経験である。様子が解らないので、これから先々の出来栄えをあらかじめ
お請合いすることは六づかしい。 毎日書いていく内に、作中の人物が勝手にあばれ出して、
作者の云う事を聴かなくなったら困ると、今から心配している。どうにも手にをへなくなれば、
登場人物を皆殺にして、結末をつける外なかろうと考へている。
律儀というかなんというか、映画(「まあだだよ」by 黒澤明)そのままの、なんともとぼけた味わい。
さすが迷い猫のこと(「ノラや」)であれだけ心配した人である。
ストーリーは、ネコラツこと吉井先生の家に書生で入った万成(マンネリズムのことらしい)君が綴る、
ちょっと師匠の「我が輩は猫である」にも似た味わいをもった、居候生活のあれこれだが、掲載紙の
時事新報という新聞社が、連載中に沈没してしまったことで、最後はその顛末も物語に乱入し、
一種メタ・フィクショナルな、前衛小説のようになって終わっているのが、なんとも面白い。
谷中安規の挿絵(版画)がほのぼのした味わいで、百間先生の話と絶妙の塩梅。
■ サイケデリック・カレンダー2007 Museum of Modern Art 2006
2007年のカレンダーを今頃買うのはバカみたいなことだけど、それがMOMAのサイケデリック・
ポスターっていうことになると話は違う。
このカレンダーは、レコード・ジャケットのサイズのフルカラー印刷で、12枚の60’sのポスターが
載せられている。
・New Year Bash – Fillmore 1967 ジェファーソン・エアプレイン+グレイトフル・デッド
・Love Festival – 1967/2ボンゾ・ドッグ・バンドやソフト・マシーン
・Most ポーランドのサイケデリック・ポスター
・ Easter Sunday – Mahalia Jackson 1967/3 at リンカーンセンター
・The Wildflowers ビル・グラハムのフィルモアのリトグラフ・ポスター、
・1966 – Fillmore グレイトフル・デッド+ジュニア・ウエルズ・ブルース・バンド+ドアーズ
・1967/7 – Fillmore ヤードバーズ+ドアーズ
・Blues Project のリトグラフ・ポスター
・1967/1 – Avalon Ballroom モビー・グレイプ+シャーラタンズ
・1967/7 – Fillmore グレートフル・デッド+ジェファーソン・エアプレイン
・Peter Max のニュー・ヨークのイースト・ハンプトン・ギャラリーのポスター
・1969 – Fillmore プロコル・ハルム+サンタナ
もちろんカレンダーとしては使えないけれど、この図版は額にでも入れて飾っておきたいなあ。
こういうデザイン・トレンドは、たぶん二度と復活する事はないだろうから。
■ Personal Exposures Elliot Erwitt W,W,Norton & Co, 198811 1st Edition
写真集が一冊売れたので、奮発した。
まえからずっと気になっていて、その本棚を前にするたびに、その存在を確かめていた本だった。
新品はけっこう高いはずだから、誰かに買われていたらきっと口惜しい思いをしていただろう。
エリオット・アーウィットは、写真家集団 magnum photos のフォトグラファーだ。
「私的な一コマ」と名づけられたこの写真集には、彼の優しさとユーモア溢れる視線で写しとられた、
たくさんのモノクローム写真が収められている。
HPに掲載されてるインタビューを、彼はこんな風に始めている。
私がエリオット・アーウィットです。このところずっとそうです。
朝起きるとまず歯を磨いてそれから仕事にかかります。もしどこか面白そうなところへ行く場合には、
カメラを一緒にもっていきます。必ずしも写真を撮るためにカメラを持って出るのではないと思います。
むしろ安心するための毛布のようなもので、大人になって毛布を持ち歩くのはあまり実用的では
ありませんが、カメラは小さいですし。運びやすくできています。
この文章の雰囲気そのままの、アコースティックな写真たち。
一見するとなにげないスナップ・ショットのように思えるその写真だけれど、よく見ると、それが巧みに
計算されたものであることがわかってくる。 そしてその光景のどれもが、あまりにもナチュラルだ。
決定的瞬間 – さりげないショットが、いちばん難しいんだ。
■ 悪徳の栄え 上/下 マルキ・ド・サド選集 澁澤龍彦訳 桃源社 197312252刷
たぶん読まない。
読まないけれど、本棚に置いておきたい本ではある、澁澤訳なら。
サディズムという言葉がもうすでに隠微な気配を失くし、普通名詞なってしまった時代だからこそ、
その語源とされるサド侯爵のこの作品を、もっていたいと思ったのだ。
訳者澁澤龍彦は、この作品を、裏返しの教養小説だといっている。
読めればスゴイ。
and so on,
■ バッファロー・ソルジャー 中上健次 福武書店 19881015 第1刷
■ 以下、無用のことながら 司馬遼太郎 文藝春秋 20010310 第1刷
■ ギャンブル人生論 阿佐田哲也 けいせい出版 198012 初版
■ 白いプラスティックのフォーク 片岡義男 NHK出版 20060210 第2刷
■ 自分と自分以外 片岡義男 NHKブックス 20040730 第1刷
■ 水平線のファイルボックス 片岡義男 光文社 19910930 初版第1刷
■ 音楽を聴く 片岡義男 東京書籍 19981111 第1刷
■ J・J氏のディスコグラフィー 植草甚一 晶文社 19800520 2刷
■ 乱世今昔談 花田清輝 講談社 19700524 第1刷
■ 狂言の世界 岩波講座 能・狂言 5 岩波書店 19870525 第1刷
■ 日本の伝統 3 文楽 チャールズ・ダン/安藤鶴夫 淡交新社 19671210 初版
■ 日本の伝統 4 茶の湯 ジョン・ヤング/永島福太郎 淡交新社 9680110 初版
■ 日本の伝統 5 歌舞伎 ドナルド・キーン/戸坂康二 淡交新社 19680210 初版
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最近追加した「アート – 絵画や写真についてのあれこれ」のブックリスト。