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2009.04.20

say it ain't so, joe

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冒頭の、トウモロコシ畑の向こうに輝く小さなスタジアムのシーンを見ただけで涙が出そうになる。
勢いあまって、長い間読めないままに本棚で眠っていた原作まで読んでしまった。

■ フィールド・オブ・ドリームス/Field of Dreams   Phil Alden Robinson     Universal 1989

■ シューレス・ジョー/Shoeless Joe   W.P.キンセラ    文藝春秋  19850410  第2刷

もちろん原作と脚本ではディテールが微妙に違ってはいるけれど、底に流れているものは変わらない。

彼は声を聞く。

” If you build it, he will come. ”

彼はそれが野球場だと感じとる、それがすべてのはじまりだ。

この物語には、アメリカの様々が、満ちあふれている。

まずシクスティーズの残滓。
何年も前に見たときにはあまり気がつかなかったけれど、映画ではシクスティーズを感じさせる演出がちりばめられている。

なにしろ主人公レイ・キンセラは、父親から逃れるためにブルックリンからあのU.C.バークレーに進学し、ウッドストックを経験し、フラワーチルドレンになり、コミューン的に結婚 した妻と農場を経営しているという設定なのだ。

農場に建っているレイの家の壁にかけられたウォーホルの「マリリン」、妻のアニーの口癖 ” Far out ! (ステキ!) ” 、おんぼろのフォルクスワーゲンのバス(原作ではくたびれたダットサン)、そしてその車のウィンドシールドに飾られているピースマーク、レイがいつも着ている首がのびたBerkeley のTシャツ、オールマンブラザースの「Jessica」、きわめつけは、レイが不思議な声を聞いたと妻のアニーに告げた時、「アシッド(LSD)のフラッシュバックじゃないの」と彼女が真面目な顔をしてつぶやく場面だ。

この60年代という設定は原作にはまったくないものだから、脚本も書いた監督フィル・アルデン・ロビンソンのリアリティなんだろうけれど、それは映画全体を包みこんでいる理想主義の底流になっている、まさに Love and Peace 。

そしてJ.D.サリンジャーの幻影。
サリンジャー(映画では黒人作家テレンス・マン)の匂いが物語のあちこちに漂っている。

主人公の名前はレイ・キンセラ、キンセラは作者と同じ姓で、レイが作者の分身でもあることを表しているんだけれど、それは同時にサリンジャーの短編(「ウエストのない1941年の若い娘/A Young Girl in 1941 with No Waist at All」)の登場人物の名前でもある。そして「ライ麦畑でつかまえて/The Catcher in The Rye」には、主人公ホールデンの級友として、弁論表現の授業で、いつも要点をはずしてばかりいるもんだから、みんなから「脱線!」といわれてばかりいる気の小さい、リチャード・キンセラという名前が登場し、それは、原作だけに登場するこのレイ・キンセラの一卵性双生児の兄弟と同じ名前だったりする。

 曰く、「合図、前兆、お告げ(a sign, an omen , a revelation) 」

そうでなくても、物語そのものが充分にサリンジャー的だ。
打算のない無償の行為、子供のころにはもっていたのにいつの間にか忘れてしまった無垢な心、お互いを赦しあう深い思いやりと理解、そして真実の愛。 ニューヨークを彷徨いながらホールデンが希求したものすべてがここにあって、レイ・キンセラはまるでホールデン・コールフィールドの裏返しの分身みたいだし、スクエアな人(たとえばコンピュータ・ファーミングを営んでいて、彼らの農場を欲しがっているアニーの兄やアニーの家族たち)には、このフィールドでプレイするシューレス・ジョーの姿が見えないっていうのも、ヒッピー的な表現だろう。

なによりも野球への憧憬。
この物語のすべてが、ベースボールという信仰へのオマージュといってもいいかもしれない。

アメリカ人にとってベースボールは、変わらないものの象徴だ。
シューレス・ジョーやムーンライト・グラハムは、その ” national treasure ” のアイコンなんだろう。

芝生の匂い、打球の音と大観衆のざわめき、ホットドックとビール、7th inning stretch に立ち上がって歌う「野球場に連れて行って(take me out to the ballgame)」、スタジアムに行けば、それはいつもある

WBCにはシビレないけれど、フェンウェイ・パークのファイン・プレイには熱くなる人たちがそこにいる。

野球は、たぶんどこまでいってもアメリカ人のものなんだ。
映画や小説や詩でアメリカ人が描く野球には、どれも郷愁や夢や友情や愛や癒しに満ちあふれていて、こんな風にこのスポーツを表現できるのは、それを心の故郷と感じている人にしかできないことだと思う。

最後は、父親とのキャッチボール。
そのベースボールを pure に突きつめると、この映画のラストシーンに行きつく。

” Ease his pain. ”

美しい夕暮れの光の中で、レイは、蘇った若き日の父親ジョン・キンセラとキャッチボールをする。

John : ” So baeutiful here, for me it’s like a dream come true. ” 
          ” I ask you something,  is this heaven ? ”
Ray :  ” It’s Iowa. “
   ・
Ray :  ” Is there Heaven ? ”
John :  ” Oh yeah,  It’s the place dream come true. ”
Ray :   ” Maybe this is heaven. ”

そのときレイは、” he will come ” の ” he ” が、シューレス・ジョーではなく、父親だったことに気づく。 

 ” Hey Dad, do you want have a catch ? ”

” I’d like that. ”

そしてどこまでも続く、「Field of Dreams ( come true )」を求めてこの小さな野球場へ向かうヘッドライトの列。
このラストシーンの空撮ショットは、美しい。 

Heaven は、どこにでもある。 

*

エコに名を借りた Phony な猿芝居がはじまった。

エコカーに乗り換えるより、今乗ってる車に乗り続けるほうが環境に優しいに決まってるじゃないか。
1台の車を製造するエネルギーはとてつもなく大きいし、乗り換えたまだ走る車はどうするんだよ。

税金を許可無なくトヨタに払うのはやめてほしい、つぶれかけたGMにだってそんなことしてないんだから。

なんとなく気ぜわしく、じっくりと本買いができていない。
暖かくなって、写真集や作品集に動きがでてきている感じはするんだけれど、そういう本に限ってなかなか補充できないんだな。 よく古本は一期一会っていうけれど、ここにきてそれを実感している次第。

■ 沼地のある森を抜けて    梨木香歩   新潮社    20060830 7刷  ¥950

この前読んだのが旧い家の話(家守綺譚)、今回は「ぬか床」の話らしい。

ぬか床?

先祖伝来のぬか床を毎日かき回すうちに、ある日、ぬか床から卵を見つけ、そしてそれが割れて、小さくて透明な男の子が現れた。

ぬか床から子供?

こんな風にこの作者はわれわれを物語にひきこんでいく、「家守綺譚」でもそうだった。

けっして奇をてらっているわけではなく、ごく自然にあやかしが発生し、たとえばこの本だったら「生命のうねり」というテーマのなかで、ナチュラルに、ときには官能的に、そして飄々と(なんとなくとぼけた味があることで、グロテスクになっていないんだ)書き綴られるものがたりに感応させられてしまうのだ。

   ― ちょうどよかった。教えてください。これはみんな、夢なのだろうか。本当のことなのだろうか。
   ― 夢だから何? 本当のことだから、何?
   ― 不安で不安で、しようがないのです。全て、触れれば消えてしまう幻のような気がして。今までのこと全て、僕が今まで考えたこと全て。確かなものが欲しいのです。確かな、確かな、絶対に消え失せない真実のようなもの。この足でしっかりと踏みしめられる揺るがない大地のようなもの。
   ― ああ。
と、アザラシの娘は深いため息をついた。

これはもうナシキ・ワールドといってもいい one and only の宇宙なんじゃないんだろうか。

「Field of Dreams」もそうだったけれど、けっきょくファンタジーのリアリティは、書き手のリアリティとオーバーラップしていくものなんじゃないかと思う。

イギリスに留学し、ガルシア・マルケスの「百年の孤独(解説も著しているそうだ)」が愛読書だそうで、さもありなん。

■ 假象の創造    青木繁   中央公論美術出版   19740615 2刷 ¥2500

有名な「海の幸」という絵のことしか知らなかったけれど、この旧い本の佇まい(ダンボールのシンプルな蓋型のケースの中に、さらに普通の函そして本にはパラフィン紙、丁寧かつシンプルなデザインの造本)がいい感じで、なんかこの本を他の人に獲られるのがイヤな気がして、おもわず買ってしまった。
いわゆる出会い頭の一発。

あのプリミティブで力強い(といっても印刷物と画像でしか見たことはないんですが)「海の幸」の印象が強いし、若くして(享年30)亡くなった人だということも知っていたので、河東碧梧桐が「彼は単に画に於ける天才であったのみならず、文章に於ても亦よく創造的気分を発揮した。彼は歌を作れば歌人となり、文章を書けば文人となり、楽器を手にすれば又たよく楽人となり得たであらう。彼は画家ではなかった、寧ろ詩人であった。」と評したというその人の文章がどんなものか、興味津々ではあります。

この本に収められている書簡の一節、明治37年8月22日のもの。

「雲ポッツリ、
又ポッツリ、ポッツリ!
波ピッチャリ、
又ピッチャリ、ピッチャリ!
砂ヂリヂリとやけて
風ムシムシとあつく
なぎたる空!
はやりたる潮!
・・・
これが波のどかな平沙浦だよ、浜地には瓜、西瓜杯がよく出来るよ、
蛤も水の中から採れるよ、
晴れると大島利島シキネ島等が列をそれえて沖を十里にかすんで見える、
其波間を漁船が見えかくれする、面白いこと、
夫れから東が根本、白浜、野島だ、
僅かに三里の間だ、野島崎には燈台がある、
沖では
クヂラ、
ヒラウヲ、
カジキ「ハイホのこと」
マグロ、フカ、
キワダ、サメ、
がとれる、皆二十貫から百貫目位のもので釣るのだ、
恐しい様な荒っぽい事だ、
・・・・・・・
・・・・・・・
今は少々製作中だ、大きい、モデルを沢山つかって居る、いづれ東京に帰へつてから御覧に入れる迄は黙して居よう。」

まるで、そのまま「海の幸」を観ているみたいだよね。

■ 袋小路の男   絲山秋子    講談社    20060126  第10刷  ¥600

この前読んだ駄作(「逃亡くそたわけ」)とは、本の雰囲気からして明らかにちがう。
小川国夫の選評よれば「純愛物語」だということだが、きっといい小説なんだろう。

「あなたにとって私って何なんですか」
 あなたは数秒考えて、そしてカタカナで答えた。
「ワカラナイ」

  ― あなたを好きな自分自身への純愛。

この人にはなんとなく坂口安吾を感じている。

安吾にも「吹雪物語」という未完に終わった純愛小説があり、やはり彼は彼女に指一本触れないという小説だった。
「袋小路」と「吹雪」という比喩にも、イメージの近親感はある。

なんにしても、「ねじれているのに、まっすぐ」という男と女の関係は悪くない。 

けっきょく作家というのは、最終的にひとつひとつの単語を選ぶセンスのところに行きつくわけで、壮大なストーリーも精緻なコンセプトもそのセンスが悪ければまったく伝わらないし、好き嫌いを決めるのも、そのセンスが決め手になることが多い(だから翻訳モノに困るんだけど)。 そういう意味で、この「袋小路」という語感は悪くないし、「沖で待つ」っていうのもなかなかのものだった。

 川端康成文学賞受賞作、この賞はクオリティが高いと思います。

それにしても、やっぱり「やさぐれた男」って吸引力が強いなあ。

■ 横尾忠則ポスタア芸術    横尾忠則   実業之日本社   20000530 初版第1刷  ¥2500

本のタイトルがすべてを表している。

横尾忠則 / ポスタア / 芸術
横尾さん以外に広告メディアであるポスターを、グラフィック・デザインではなく芸術と呼べるひとは、それほど多くない。

主に1995年以降に制作されたポスターから、アーティスト自らが選んだ135点。

どれもが、すごい。

「モダニズムデザインが排除した様々な要素を拾い集めること。例えば私的領域からの発想、そして、情念や感情をデザインの中に取り戻す。神話や物語の復権、死や夢やエロティシズムなどのロマン主義の導入、科学とオカルティズムの対立、さらにデザインと美術の境界の平面化によってモダニズムデザインの超克が可能かということに、ぼくの興味は傾いていった。( by 本人)」

モダニズムを突き抜けたポップアート。 

これ以上の解説はありません。

*

http://kotobanoie.com