フォームのことを教えてくれたのは、阿佐田哲也こと色川武大さんだった。
「フォームというのはね、今日まで自分が、これを守ってきたからこそメシが食えてきた、そのどうしても守らなければならない核のことだな。気力、反射神経、技、それ等の根底に、このフォームがある。まず、自分流のフォームをつくらなければならないんだがね。それは一生を通じて自分の基礎になっていくものだから、あやふやな概念で組み立てるわけにはいかないだろう。」
「思いこみやいいかげんな概念を捨ててしまってね、あとに残った、どうしてもこれだけは捨てられないぞ、と思う大切なこと。これだけは守っていればなんとか生きていかれる原理原則、それがフォームなんだな。(うらおもて人生録 1984)」
このあとに続く九勝六敗という「運」にまつわる話もなかなかコクがあって、これもまたそうとう面白いんだけれど、ともかく持続(つまり生き残ること)こそがプロの要諦で、そのためにはフォームがなによりも大切なんだと説いて、
「ことわっとくが、フォームに既製品はない。自分で手縫いで作るんだよ。」
と言いきるこの無頼の人のこの言葉。
少し前のエントリーで引用した、司馬遼太郎さんが提示してくれた「自分が自分できめ自発的に”自分はこうあるべきだ”として、自分に課した自分なりの拘束性」という「duty」の概念も、ニュアンスとしては近いかな。
Kさんから本棚(library)をつくる仕事を頼まれた時、まず浮かんだのはこのフォームのことだった。
Kさんは、この前コトバノイエの30冊のセレクションをしていただいたKさん、本棚はKさんのオフィス、K工務店のミーティングルームにある2145mm x 5段の本棚、びっしり詰めれば500冊近くは並ぶ。
最初から完成させるのではなく、少しずつ成長していくような本棚にしていこうというのが最初の決めごとで、本の量はそのプランの中で表現されていくことだから、キャパシティそのものはあまり意味のないことだけれど、それでもやはり、それなりの数にはなる。
コンセプトは、美容室のときと変わらない。
「そこに書かれている内容だけじゃなく、ブックデザインや組み合わせも含めたセレクションで、そこに在ること自体がそのスペースやそのショップやその人の表現となるような本棚をデザインすること。」
「差別化がマーケティングのキーワードとなっている時代に、本というものが(単にディスプレイとしてだけじゃなく)、そのひとつのマティリアルになることがあったってい いんじゃないだろうか。」
という想いである。
その本棚のある場所は、これから家を建てようとする人たち、つまりKさんにとってのお客さんとのセッションの場であり、時には建築家との打ち合わせやスタッフミーティングにも使われるというところ、そういう場に合わせてこのコンセプトをアレンジするとこんな感じになった。
「その本棚を眺めた人(読む人ではなく)が、K工務店の造る家(空間)での生活をイメージできるような本棚、そして同時にK工務店の resource library であること。」
セレクションの大きなカテゴリーは、home(様々な生活のシーン)と house(家づくり)
そしてそこから派生する細かなセグメント。
ここまではまあ手筋だ。
じゃあそれはどんな本なんだということがじつは本題で、その段階になって件のフォームのことを考えたわけだ。
カタチの上ではいろいろなスタイルが考えられるんだろうけれど、なによりもまず芯のようなもの(フォーム)がないとセレクションにとりかかれない、じゃないと迷ったときに(必ず迷うのだ)いいかげんな決めかたをしてしまうことになるからだ。
とりあえずそれらしい本をピックアップしながら、まず考えたのは fairness、フェアにいこうということだった。
予算やスペースに拘束されるとはいえ、本はそれなりの数になる。
そうなるとどうしても「売りたい」本が顔をのぞかせる。
誰かのために本を選ぶとき、この「売りたい」はちょっと問題なんだ、「売りたい」に「愛」はないからね。
仕事としてある種の契約をむすんでやる営利的な行為だから、利害、あるいは個人的な感情から自由になることはできない。でもセレクションにそういう恣意がはいってしまうと、どうしても独りよがりだったり頭でっかちなものになってしまうことが多いし、それを押しつけることは誰のためにもならないことだから、できるだけそういったものはないほうがいいだろう。
フェアっていうのはそういう意味だ。
簡単にいうと、自分の都合や思惑だけで本を選ばないということ、そして同時にそれは工務店サイドの都合を、施主や施主候補の人たちに押しつけるものであってもならないということでもある。
こうやって書いてしまうと、ごくあたりまえのことのように思えるけれど、じっさい目の前にその都合が横たわっていると、それが案外難しくて、ああでもないこうでもないと考えているうちに、ついイージーな方向にいってしまったり。
けっきょくこのフェアネスっていうのは、どれだけそれを見る人の立場になれるか、究極的にいうと、クライアントをどれだけ愛せるか、というところに行きついてしまうようだ。 そしてそれは、はからずも、メールのやり取りのなかでKさんがいっていた、「照れくさい言葉ですが、『愛』のある本棚になれば」というところと、つながってしまったのだった。
たしかにちょっと照れくさいけど、最後はやっぱり「愛」、All You Need Is Love なんだ。
そして、もうひとつの軸は、「HIP」であるということ。
でもこれはちょっと説明不能かな、言葉ではぜんぜんうまく表現できそうもない。
HIPはコトバノイエの属性みたいなものだ。
それはこのブックショップを通底する価値観のモノサシで、スタイルでもあり在りかたでもある。
まあ自分の頭で考えること、とか Be on your own といったようなこと。
A か B かで迷ったときに、取捨選択の最後の基準になるのが、このHIPというモノサシなんだけれど、基本的にはコトバノイエの本棚に並ぶ前のところで、そのフィルターを通してあるわけだから、本のことでコトバノイエを選んでいただいた方にもれなくついてくるオマケみたいなもんと考えていただきたい。
どちらかというと、こちらがコトバノイエの「フォーム」なのかもしれない、と思う。
あと もうひとつ忘れてはいけないのは coincidence( 偶然)というファクター。
ふとした偶然、じつはこれがいちばん面白い、たまたまとか出会いがしらってけっこうパワフルなのだ。
そういうのは偶然ではなく、天から降りてきた啓示、必然と考えるべきだと思う。
ともかく、そんな風にブックリストがつくられ、ちいさなプランツやK工務店のヤングダイクが拵えてくれた杉板のブックエンドやグラフィックのYくんが造ってくれたタイポグラフィや工事風景のフォトスタンドや元から住んでいたこのライブラリイの住人たちと一緒にディスプレイされたのだった。
あの本棚がうまく育ってくれらたいいなあ、と心から思う。
*
天気が良かったので、江坂と天神橋をハシゴした。
車検を受けてタイヤを交換したばかりのSAABで走ると、いつも混んでいる淀川を跨ぐ橋がガラガラで、広がった視界の向こうでに水面がキラキラと輝いて、とてもキレイだった。
やっぱりウォーターフロントっていいなと思う。
引っ越しのシーズンは本の動きが早い。
■ The New Religions of Japan HARRY THOMSEN TUTTLE 1963 first edition
長い間ずっと均一棚にあって気になっていた洋書を、読めもしないのについに買ってしまった。
デンマーク人のキリスト教の宣教師が戦前戦後の日本の新興宗教を考証した本のようだ。
こういうものは、外国人のほうがよく見えているんじゃないかという気が、ふとしたのだ。
当時171あったという新興宗教を、古い新興宗教(天理教・黒住教・金光教=幕末三大宗教)、日蓮グループ(創価学会・霊友会・立正佼成会)、大本教グループ(大本教・三五(あなない)教・生長の家・世界救世教・PL教団)、その他に分けて分析している。
中でも、これらの日本の新興宗教の共通の特徴としてあげている項目が興味深い。
1, They center around a religious mecca ご本尊・聖地のまわりに集まる
2. They are easy to enter, understand and follow. 入りやすく解りやすく受け入れやすい
3. They are based on optimism. 基本に楽観的 不安は持たない
4. They want to establish the kingdom of God on earth, here and now. 今この場での救済 現世利益
5. They emphasize that religion and life are one. 信仰と生きることはひとつのものと強調する
6. They rely upon a strong leader 教祖絶対 強い教祖様に頼る
7. They give man a sense of importance and dignity 大切にされ敬われていると感じさせる。
8. They teach relativity of all religions 宗教はどれも似ていると教える
これって一種の組織論だよね。
一神教のキリスト教から見れば、ほとんど宗教とは見えないんじゃないんだろうか。
■ アントナン・アルトー論 スーザン・ソンタグ コーベブックス 19760830 初版
The New Yorker 1973/5/19日号初出
「Approaching Artaud」
あのソンタグが、ヒッピーたちよりも30年早くペヨーテを体験していたという、難解なシュルレアリストを論じる、そのことだけでも充分エキサイティングだ。今はもう存在しないローカルな書店が発行しているというところも好ましい。
詩人であり演出家であり役者であり、最期は精神病院にいった異才。
シュルレアリストの中では、デュシャンとこの人が圧倒的に純度が高い、そしてその分短命(デュシャンは長生きしたが、若くして隠遁した)だった。
「アルトーは作品にも人生にも失敗した。」
ソンタグの評論はここからはじまる、あくまでもクールなのだ。
■ なにを買ったの? 文房具 片岡義男 東京書籍 20090401 第1刷
伊東屋をぶらつくのは楽しい、本屋にいるのと同じように2時間くらいあっという間にたってしまう。
必要に迫られてみるアスクルのカタログとはえらい違いだ。
文房具のフォトブック、片岡さんの新刊(新古ですが)を買ったのはほんとに久しぶり。
黒いミューズボードの上に絶妙にレイアウトされた文房具たちの写真に、
「いま僕は一本の鉛筆を手にしている。ひとり静かに、落ちついた気持ちで、指先に一本の鉛筆を。たいそう好ましい状態だ。少なくともいまはひとりだけでここにいる自分というものを、その自分が指先に持つ一本の鉛筆は、すっきりと増幅し際立ててくれる。いまきみは孤独だ、とその鉛筆は僕に言ってくれている。 孤独な僕は、I think better with a pencil in my hand. というワン・センテンスを思い出す。鉛筆を手にしていると自分はより良く考えることができる、という意味だ。ずっと以前にどこかで読み、それ以来いまも忘れずにいる。考えるためには、人は孤独であるのが、もっとも好ましい。考えるとは、心が精神作用を営んでいく過程の、ぜんたいだ。考える営みとは、心とその働きそのもののことだ。そして心にとって最高にクリエイティヴな状態は、孤独より他にあり得ない。」
いつものように、こんなクールな文体が重なる。
面白いのは、文房具にはピラミッド上のヒエラルキーがあって、一本の鉛筆(ステッドラーの2Bから始まる)が、その頂点に立つと断言していることだ。
「色鉛筆、各種の筆記具がそれに続き、それによって書かれるはずの文字や図形を受けとめる簡便きわまりない平面として、紙つまりノートブックが、ピラミッドの高いところに位置を取る。裾野に向けてピラミッドの斜面は広がる。その四つの斜面に囲まれた内部の平面を、ありとあらゆる機能の文房具が、何層にも重なり合いつつ埋めつくす。」
文房具のことをこんな風に考えられるのは、この人だけだろうと思ったら、なんだか可笑しくなってきた。
このひとりごとがなんとも素敵なのだ。
■ つくられた桂離宮神話 井上章一 弘文堂 19870715 初版第4刷
関西の頭脳(?)、井上章一の桂離宮論
美人論、霊柩車、ラブホテル、名古屋、阪神タイガースこの人の関心は、知ったかぶりとか偽善的なものなどに注がれる。
神話はいかにつくられるか。
この本でも、桂離宮そのものの美しさや成り立ちが論じられているのではなく、有無を言わさず美しいといわれているその神話性に焦点をあてて、通念やイメージが、どのように形成され、ひとつのブランドとして流布されたかということを考察している。
頭のいい人だから、学術的な水準を落とすことなく、読み物としての面白さにもあふれていて、関西のパトロン、サントリーから学芸賞をもらったのもうなずける。
桂離宮は安吾もブルーノ・タウトをからめて鋭く論じているけれど、とにかくタウトと桂離宮は、日本人が外国人のオーソライズに弱いことの典型というようなケースで、井上さんもまずここからはじめて、タウトにコロンとやられてしまった知識人や建築家を、関西的に「笑って」いる。
ひょっとしたらこれが元凶じゃないかと、みんなが感じているその「ひょっとしたら」をうまくつくのが、彼の真骨頂だろう。
しかも誰もが知ってるものじゃなく、微妙にマイナーなところを狙うのがうまいのだ。
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「本を特集した雑誌」のブックリスト
そしてそのKさんのセレクション、「 木村工務店の木村貴一さんが選んだコトバノイエの30冊」もぜひご覧あれ。