BLOG

2008.10.08

still water runs deep

rustyvolvo3.JPG

田中小実昌の映画エッセイを読んでいたら、どうしようもなく映画を見たくなった。

■ コミマサ・シネノート    田中小実昌    晶文社     19781110 第2刷

「木曜日、いなり寿司(五コ六十三円)を買って蒲田駅西口のパレス座に行く。どんな計算で
六十三円になり、いったい、一コいくらなのか、だいぶ考えたがわからない。キップ売り場には、
大人割り引き百五十円と書いてあった。『いま割り引き時間?』と、テケツの女のコにきいたら
『いいえ』という返事。とにかく百円玉を二つ出すと十円玉が五つかえってきた。こいつも、よく
わからない。」

まあこんな風にはじまるコミマサ・ワールドなんだけれど、「テケツ」っていうのがなんとも。

1970年代の本だから、「カッコーの巣の上で」とか「愛の嵐」といった洋画から、大映や東宝の
プログラムピクチャーや日活ロマンポルノ、そしてそのころとしては前衛だったATG系の作品
まで、そうとうな数の劇場映画が、ノンジャンルで紹介されている。

引用した文章からもわかるように、それは映画批評というより、映画にまつわるたわいのない
日常や、映画へのアティチュードを、飄々と描いていくなかで、ひとりごとのようにその映画の
ことを語るという、いかにも「コミさん」らしいスタイルの映画日記で、たとえば三本立てとロード
ショーのどっちが得かとか、弁当をたべてから見るか見てから食べるかとか、暖房完備なのに
なぜ風邪をひくんだとか、例によってほとんどがとぼけた話ばかりなんだけれど、ときおり見せ
るシャープな批評眼とそのとぼけた暮らしぶりとのギャップに引き込まれて、ついつい読まされ
てしまうのだ。

続けて読んだ「ぼくのシネマ・グラフィティ( 新潮社 1983)」ではこんな風にいっている。

「世の中とおんなじで、映画でも、おもおもしさとか、感動の深さとかなんてことがいい作品の
尺度みたいにされている。しかしおもおもしさなんてバカでもできることなのよ。
また、バカはしつこいから、しつこくおもくする。それをまた、世間ではほめてくれる。
おもおもしくするのは、外部から重しをつければいい。ストーリイをおもくしたり、あれこれ、重し
をつける方法はいくらでもある。 だけど、かるさは、外部からではなく内部から、かるくならな
くちゃいけない。これは、なかなかできない。ただ、知的であることによって、精神的な自由を
得、かるくなることもある。バカには見えかったものが、スカッと知的だと、すんなり見えてきて、
どうってことはなくなるのだ。」

これもまた、いかにも田中小実昌的な(シャープなほうの)語り口。

これは「全員集合シリーズ」の渡辺祐介監督を評した文章だけれど、そのままこの人の、創作
のスタイルを表わしているように思える。

あるいはまた、同じ本の中で、ウディ・アレンの「インテリア」を、「味なんてものもないみたいな
自制心の強い映画だ」と激賞し、こんなこともいっている。

「類型は甘い。 類型は、物語でこってり毛穴をふさぎ、みずみずしい息づかいがない。」

この「類型」っていうのは、つきつめてみれば「らしさ」っていうことじゃないかと思う。
そしてこの人の中にはいつも、いかにも「らしい」ことへの照れやためらいがあり、その小説
からは、小説がいかにも小説らしくなってしまうことへの「含羞」のようなものを感じる。

ニットキャップとサンダルというとぼけた風貌で新宿ゴールデン街をさまよい、小説らしくない
小説ばかりを残し、一貫して「作らない」ということに徹したこの人ほど、「類型」から縁遠く、
そして自制心の強かった作家はいないかもしれない。

静かに見えるけれど、じつは深いところで逞しく流れていたんだろうな。

近くのシネコンで、「テケツ」を買って見たのは、絵に描いたようなB級 hollywood movie 。
それでもスクリーンいっぱいに投影されるL.A.の茫漠とした遠景や、南カリフォルニアの
あっけらかんとした日常のディテールを眺めていると、心がすこし痺れる。

trip ― 集中してスクリーンを見ているのに、脳の別のところで別のシーンを見ている感じ。

絵画や音楽や本も、それぞれに独特のバイブレーションで、さまざまな感情をもたらして
くれるものだけれど、こんなふうな感じで心を揺さぶられるのは映画館の中だけなんだ。

シネコンじゃいなり寿司は食べられないし、名画座で三本立てを見る体力もないけれど、
あの暗がりの中で独りすごす2時間は、他のなにものにも代えがたい。

映画館に行こう!

*

新しいものではありませんが、写真集がいくつか集まってきました。

ただ眺めるだけの本ですが、こういった小品があるのとないのとでは、本棚の暖かさが
違ってくるんじゃないかと思っています。

一点でもいい写真があれば、買いですね。

■ opentop STYLE    GRAHAN ROBSON      CHARTWELL BOOKS 1988

an A-Z of Convertible Automobiles

同じ本を、英国の E-bay で見つけたら、こんなキャプションでした。

A Fabulous book all about the timeless classic covertable.
Hardback book with dust cover in good condition.

コンヴァーチブル、オープン、カブリオレ、ドロップヘッド、いろいろな言いかたがありますが、
屋根のないクルマは、自動車の「華」だと思います。

幌やトップを開けることによって、空が近くなり、風がちぎれ、景色が流れ去る。
自動車で、こんな風に一瞬にして非日常をつくれるのは、この車種だけでしょう。

この本には1966アルファロメオ・ジュリア/1961シトロエンDS/1969フェラーリ・デイトナ
といった名車といわれる53台のオープントップ・モデルの解説(英文)、スペック、そして多数
のカラー図版が載せられています。

どの車も工業製品としての美しさに溢れていて、自動車というものが、マーケティングよりも
機能美をより強く意識してデザインされたのは、この時代(1988年発行)あたりまでだったの
かもしれないと思います。

■ 不測の事態 water fruit     篠山紀信+樋口可南子    朝日出版社 19910315

「いつの時代も最良の時間と場所でカメラを構えている」篠山紀信、面目躍如の一撃。

写真そのものはどうってことないですが、日本で陰毛を解禁させるきっかけとなった本で、
「ヘアヌード」という言葉も、たしかこの写真集と「Santa Fe」からじゃなかったかな。

日本大学芸術学部在学中に、超高級大型カメラの Linhof スーパーテヒニカを引っさげて、
ライトパブリシテイの面接に行き、名だたるアートディレクターたちの度肝を抜いて、見事
合格したという逸話は、この人のその先の姿を暗示している気がします。

じっくり腰をすえたいい仕事もいっぱいあるけれど、企画イッパツという仕事も同じくらい多い
ので、名声のわりに評価が定まらない写真家だと思いますが、いずれにしても「時代」という
ものに対する敏感なアンテナを持った人であることは間違いありません。

33才の樋口可南子は、はっとするほどの美形。
いわゆるヘアヌード写真集をだした人で、きちんと女優の仕事をしているのは、宮沢りえと、
この人くらいじゃないでしょうか。

最近はソフトバンクのおかあさんのイメージが強いですが、うまく時を重ねた人で(糸井さん
との結婚が大きかったのかな)、ひょっとしたらこのときより今のほうが魅力的かも。

■ PUPPIES   WILLIAM WEGMAN    HYPERION  1977

動物の赤ちゃんは、だれが撮っても不可避的に可愛いので、映像業界では反則アイテム。
でも、このワイマラナーという犬に関しては、この人の独壇場といってもいいかもしれません。

ワイマラナーは、とにかくその表情が哲学的、そして全体のフォルムもフォトジェニックです。

売れない現代美術の画家だった彼にとって、奥さんからおねだりされた子犬がエンジェル
だったようで、その子犬「マン・レイ」はヴィレッジ・ヴォイスを飾るほどの人気者(犬)になり、
さらに2代目の「フェイ・レイ」をモデルに、20 X 24インチの大型ポラロイド・カメラで撮った、
ウェグマンの作品は、美術館だけでなく、ポスターやカードとなって人気を博しています。

そしてそのフェイ・レイの子供や孫たちがこの写真集の主人公。
写真がうまいことももちろんあるんですが、とにかく可愛らしいとしかいいようがありません。

この犬を飼っている人なら、必携です。

■ 生きのびるためのデザイン    ヴィクター・パパネック    晶文社    19740815 初版

Design for the Real World : Human Ecology and Social Change

34年前の本ですが、この本で著者が語っている社会性を持ったデザインや、生態学的
デザインの概念は、今でもというか、今でこそ必要とされるものかもしれません。

インダストリアル・デザインと商業主義(お金儲け)の問題は、現代デザインにとっての大きな
テーマのひとつですが、ビジネスとの関係をどのようにプログラムしていくか、つまりどのように
デザインをデザインしていくかということが、決め手じゃないでしょうか。

1971年という時期の話なので、デザインを商品を売る手段としてではなく、巨大な「少数者」
たち ― 第三世界の人びと、病人、老人、身体障害者を救う倫理的な行為として考えようと
いうメッセージには、いかにも Whole Earth Catalog 的な理想主義のニュアンスを感じます。

「Human Ecology and Social Change」という方向性はもちろん有効だと思いますが、状況が
複雑に入り組んだ時代ですから、そういったことを実現するためには、より高度なアプローチ
が必要だし、なによりも、そういうビジネス・モデルをデザインできるプロデューサーの存在が
必要不可欠になるでしょう。

最近追加した 詩や小説やエッセイのブックリスト