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2008.10.17

shuffle your shuffle

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 Mac Book に向かっているときは、 iTune で音楽を聴くことが多い。

新しくはじまった「genius」というリコメンド・サービスも面白いけれど、以前からあった「party shuffle 」という機能を、最近とても気に入っている。

音源をライブラリに入れたのは自分自身なのに、ぜんぜん覚えのない曲が流れてくることがあって、これなんだったかなあとリストを見直すこともしばしば。もともと自分のセレクションだから、その中からピックアップされた音が心地よいのはあたりまえなんだけれど、予想外のオーダーで流されると、すごく新鮮に感じてしまうのだ。

ひとことで言ってしまうと「セレクションの重層」、本棚(ライブラリ)からさらに別の視点でセレクションを重ねる「・・・が選ぶコトバノイエの 30冊」と同じようなコンセプトなんだけれど、それを「shuffle」と名づけて、ネットワーク上で軽々とやってしまうプログラムは、やっぱりちょっとしたもんだと思う。

もちろん気に入った曲ばかり集めた  favorite tunes や様々なテーマを設定したプレイリストはいくつももっている。
自分が聴く音楽の選曲を他の誰かに任せることなんてありえないし、その曲順だって自分が決めたものがいちばんだと盲目的に信じてきた。 (そのこと自体がちょっと out of date でもあるけど)

でも飽きるんだ、必ず。
いくら自分の大好きな音楽だって、何度も聴きつづけると飽きる。

考えてみれば、カスタマイズというのは、ある意味とてもナルシスティックな行為で、その濃度の高い自己完結は、やがて袋小路に入りこみ、とにきは破壊というところまでいきつく爆弾でもある。

shuffle の心地良さの理由は、軽い自己放棄ということだろう。

作らないこと。

田中小実昌じゃないけれど、「作ること」はやがて疲れる。
すでに最初の大筋(セレクション)は自分で決めているんだから、そこから先はもう少しゆるくいきたい。

自分が確かと思えるなにかに身を任すことで、おもわぬ快感がおとずれる。
この自立したオートマティズムこそが、究極のクリエイティブかもしれないと思ったりする。

意図したわけじゃないのに、そのときの風景や心象にフィットする曲がかかるのが、単なる偶然や deja-vu とは思えないのだ。

もうひとつ、shuffle で大きく変化したことがある。

それは「アルバム」という概念を吹っ飛ばしてしまったことだ。
iTune という新しいメデイアと shuffle という機能(コンセプトといってもいいかもしれない)は、音楽の単位を「一曲」にしてしまった。

少し前、ポップ・ミュージックにも「アルバム」の時代というのがあった。

もっとも象徴的なのが、コンセプト・アルバムとかトータル・アルバムとか呼ばれていた一連の作品。 

まずひとつの統一されたコンセプトが設定される。
それはたとえば「Tommy」という三重苦の少年の物語であったり、「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」という架空のバンドのコンサートであったり、「Ziggy Stardust」という火星からやってきたスーパースターのストーリーだったり、あるいは人間の「狂気」というものにまつわる断片だったり。

そのアルバムに収められるのは単なるよせ集めではなく、そのコンセプトに適った曲だけ。慎重に曲の順番が決められ、アートワークやプロモーションのツールもそのコンセプトに沿ってデザインされる。時にはそれぞれの曲が切れ目なく繋がっていて、それがまたコンセプト・アルバムであることを強調する。

だから、聴くものはまずアーティストが発信するアルバムのコンセプトを理解しなければならない、もちろん曲の順番を変えることや自分の好きな曲だけを勝手に取り出すことなんて許されないし、できればジャケットや歌詞カードも見ながら聴くべきだ、なにしろアーティストがそういう風に造りあげた「作品」なんだから。

POPがただ消費されるだけのごみ屑じゃなく、美を含んだものと認知されていたころの話。

まあこれは極端な例だけれど、ジャケットのデザインも含めた「アルバム」という概念そのものが、多かれ少なかれそういう作品としての側面を持っていて、それが聴く側に一定の制約を与えていたのは疑いようのないことだ。そして、結果的にそうした制作サイドの思い入れを、ウザイとさえ感じてしまようになったのは、明らかにiTune – iPod のひとつの効能だろう。

インターネットでの音楽配信(ほとんどが曲単位のものだ)は、確実に「アルバム」という形式を破壊し、iTune – iPodは、音楽へのアティチュードを聴き手中心のものへと導いた。

制作者の意図とはなれたところでこのように音楽が消費されることが、良いことなのか悪いことなのかは正直よくわからないけれど、このJods の一撃によって、リスナーがより手軽に、そして快適に自分が聴く音楽をコントロールできるようになったことは間違いない。

そして制作者もまた、リスナーのそういったアティチュードの変化を意識せざるを得ないわけで。
近年になってコンピレーションやベスト盤が増加しているのは、おそらくそういったことなんじゃないかと思う。

iTune – iPod って、ひょっとしたら Steve Jobs の最大のビジネスモデルかもしれないと思えてきた。

ちなみに、今かかっている party shuffle のプレイリスト はこんな感じ。

The Circle Game  Joni Mitchell
Cantaloop  US3
Love Rescue Me  U2
Life  Des’ree
Just Like Tom Thumb’s Blues  Neil Young
It Ain’t No Fun To Me  Al Green

たいへんけっこうなお手前でございます。

*

天神さんの古本市に行った。

少し前に四天王寺に行ったときの印象もそれほど良いものではなかったし、古書狂いというわけでもないので、露天の古本市には、さほどそそられる感じはないんですが、やはり本のたくさん集まっているところというのは魅力的なわけで、自分自身に「仕入れのついで」などという言い訳をしながら、光に吸い寄せられる虫のように、やっぱりそこへ行ってしまう奴を、とてもいとおしく思います。

収穫は、ほとんどナシ。

これもまた、ひとつのもの狂い哉。

■ 微光のなかの宇宙 ― 私の美術観   司馬遼太郎   中央公論社  19880610 再版

なんかいいタイトルだな。

「美」というものの不思議さや儚さをうまく掴んでいる気がします。

一連の歴史小説や評論で「国民的作家」といわれる司馬さんですが、美術記者だった時代を振り返った文章も珍しいし、本格的な美術論というのは、あまり見たことがありません。 
同じタイトルで480部・43000円の限定本(中央公論社刊)を出版しているのも、華美を好まない司馬さんとすれば例のないことで、この本にたいする思い入れの深さが表れているような気もします。

個人的には以前いちど買い逃して悔しい思いをしたことがある本なので、やっとめぐり合えていい気分。

「物が沈黙のなかで創られる以上、創られてからも、ひたすら見すえられることに堪え、平然と無視される勇気を本来内蔵しているべきものなのである。(裸眼で)」

■ 旅。建築の歩き方   槻橋修編    彰国社     20061230 第一版

原広司、山本理顕、石山修武、妹島和世、西沢立衛といった人たちへの旅にまつわるインタビュー。

いわゆる建築のグランド・ツアーの話なんですが、この本だけじゃなく、他の本やネットで建築家の建築巡礼の話を見聞きするたびに、建築家って真面目な人種だなあって思います。

対象が動かせるものじゃないから、行かなきゃ見れないというのはわかるし、見なきゃわかんないというのもよくわかりますが、だからといって、八十八ヶ所を巡るお遍路のようにサヴォア邸に行かなくてもいいんじゃないかと思ってしまうわけです、宗教じゃないんだから。

著者は「原スクール」の人のようで、巻頭の原広司さんへのインタビューがいちばん印象的。
ディスクリート、コラージュ、アンリアル、原広司っていう人は言葉を見つけるのがうまい人だなあと思います。

■ 一戔五厘の旗    花森安治    暮しの手帖社   19711225 第4刷

伝説の人。

「暮しの手帖」の初代編集長(現在はCOW BOOKSの松浦さん)、オカッパ・スカートの奇人が遺した唯一の著作集。

偏屈こだわりの人らしい造りの本で、あとがきによれば、本体は、写真はグラビア文字は活版、つまり2度刷りという手間のかかった印刷、函もグラビアの4色刷を校正機で一枚ずつ手刷りするという凝りようで、大判のソフトカバーに函をつけるという体裁もあまり見たことがありません。

花森さんは、徹底して「庶民」を意識した人で、庶民の安らかな暮しをかき乱すよこしまなものを許さないということの象徴が、ぼろ布をつぎはぎした「一戔五厘の旗」だそうで、戦争中の有名な「欲しがりません勝つまでは」という愛国キャンペーンをディレクションしたことへの悔恨がこの「庶民」思想の原型になっているんじゃないかと思います。

「暮しの手帖」はシビアな商品テストで有名な雑誌ですが、この本の中で花森さんはこんなふうに言っています。

「商品テストは消費者のためにあるのではない、店に並んでいるものがちゃんとしたものばかりなら、かしこい消費者でなくてもじぶんのふところや趣味と相談して、どれを買うかを決めればよいのである。そんなふうに世の中がなるために、作る人や売る人がそんなふうに考え、努力してくれるようになるために、商品テストはあるのである。」

広告をとらないこと、そしてそのことによって商品テストへのフリーハンドを得るというプロジェクト・デザインが、この花森さんと「暮らしの手帖」という雑誌の先駆的なところで、最盛期には90万部を売り切ったということですから、この本を懐かしく思うお母さんたちがたくさんいるはずです。

日本でコンシューマー(消費者)という概念が定着したのは(したのか?)、この雑誌の功績が大きいんじゃないでしょうか。

■ あの猿を見よ ー 江戸佯狂伝     草森紳一   新人物往来社    19841105 第1刷

「佯狂」とは狂気を装うことだそうです、つまり「アホの坂田」。

中国では佯狂で世を逃れることが隠棲の方法としてポジティブに認知されていたそうですが、江戸の管理社会では、体制の安定を保つためにすべてを乱心として処分したんだそうです。その佯狂の実相やそのことによる悲喜劇が、この本では語られています。

「太平もまたかたちをかえた乱世であることを、人は見逃しやすい。乱世にあって太平を願うのは、人情だが、いざ太平がやってきた時、やはり人の生理は、いらいらとなまぬるく疼き痛むのである。」

20年以上も前の著作で、しかも江戸のこととして語られたことですが、管理社会のなかでがんじがらめにされたあげく、佯狂か狂気か定かでないものに落ち込んでゆく侍たちの姿が、昨今のいろいろな事件の犯人たちとオーバーラップします。

でもたぶん、もうすこし深い。

■ ぜんぶ余録   山田風太郎   角川春樹事務所   20010608  第1刷

1996年に始まった風太郎さん最晩年のロングインタビューの完結編(1998.10~2001.1)。

第1巻は1996.4~1996.12の 「コレデオシマイ」、第2巻は1997.1~1998.4の 「いまわの際に言うべき一大事はなし」。
「コレデオシマイ」 は勝海舟の、「いまわの際に言うべき一大事はなし」 は近松門左衛門の最後の言葉。
「人間臨終図巻」の著者である風太郎さんが気に入っていた臨終の言葉らしい。

「ぜんぶ余禄」は自身の言葉、彼は昭和20年8月15日から先の自分の人生はすべて余禄だといっていた。

2001年7月にパーキンソン症候群で亡くなる直前までのインタビューは、記録としても貴重なもので、編者の努力には最大級の敬意が払われるべきでしょう。

それにしても、「次にまた日本は、原爆を落とされるよ。」とは何たる予言、ひたすらスゴイ。

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