庭に石をおいた。
蹲ったような石塊が、最初からそこにいたような顔をして庭の片隅に収まっている。
変わらないことが石の面白さだと、庭師が教えてくれた。
変わらないものは変わりゆくものを映す鏡のようなものだから、
この石が、日々移ろう草や木や花を、そして変わっていく自分を見守ってくれるかもしれない。
久しぶりに山田風太郎の本を買った。
□ あと千回の晩餐 山田風太郎 朝日新聞社 19970610 5刷
山田風太郎といえば、まずなんといっても忍法帖だ。
過酷な運命を背負った忍者たちが奇想天外な秘術を尽くして死闘を繰り広げるというこの奇譚集
の一群(1958年の「甲賀忍法帖」にはじまって1991年の最後の小説「柳生十兵衛死す」まで
長編・短編あわせて100作以上にもなるらしく、もちろん熱狂的なコレクターも存在する)、
最初はあまりのバカバカしさに腰がくだけそうになってしまうんだけれど、読み進めるうちに
どんどん引き込まれ、知らないうちにそのうち中毒症状となって次々と読みあさらずにいられなく
なってしまうという強力な麻薬性を持っている。
シュールとユーモアとエロスが渾然一体となったこの忍法帖シリーズの破天荒な面白さは、まさに
「 never a dull moment (退屈しないよ)」としか表現のしようがない。
ひとつ間違えばキワモノになってしまいそうな素材を、司馬遼太郎の歴史小説のように読ませて
しまうのは、品のある生真面目な文体とストーリーテラーとしての緻密な構成力、つまり小説家
としての資質の高さだろうし、イメージに流されることのない精巧な語り口は、この人が徹底した
唯物論者だということを物語っているんじゃないかと思う。
読むなら角川文庫の旧版(ピンクの背表紙)に限る。
佐伯俊男画伯によるカバーの官能的なイラストレーション(表紙絵というべきか)は、山風忍法帖と
一心同体、切っても切れぬなさぬ仲のミックスメディアと考えたい。
珠玉の一冊を選ぶとすれば、「風来忍法帖」か「忍法八犬伝」かな。
そしてエッセイ。
学生であった戦時中に書き記していた「戦中派不戦日記」や、「いろいろな徴候から、晩飯を食う
のもあと千回くらいなものだろうと思う」とはじまるこの「あと千回の晩餐」もそうだけれど、
ともかく自然体、ナチュラルな物言いが気持ちいい。
戦中派独特の虚無感のようなもの(太平洋戦争によってその後の人生にもっとも大きな影響を
うけたのはこの人や小林信彦さんの世代なんだ)を漂わせながら、その日その時の心の気配を
飄々と、そしてユーモラスに(真面目なご本人にそんな気はないようだが)、綴ってくれている。
中でもこの「あと千回の晩餐」の、「国立大往生院(仮称)」なる老人集団安楽死施設のはなしは、
強烈なブラック・ユーモアで、65歳で自死を選べるというこの話には、真剣にそれを望むお年寄り
からの手紙が相次いだらしい。昨今の年金や後期高齢者医療の問題を冷静にさきどりしていて、
「いろいろ考えたが、やはり老人の数をへらすよりほかにない」と、すでに老人である自らが嘯く
ところがなんともいえず痛快で小気味良い。
このエッセイが朝日新聞に連載されたのが1994年6月から1995年3月だから、山田風太郎は、
実はこのあと2千回以上の晩餐を食したわけだけれど、「長生きは一応めでたいことになっているが、
モノには限度ということがある」なんていうことをスラリという人だから、ウィスキーと煙草と本人が
名品と自賛する「チーズの肉トロ」をその日まで食べ続けていたのかもしれない。
モノには限度ということがある」なんていうことをスラリという人だから、ウィスキーと煙草と本人が
名品と自賛する「チーズの肉トロ」をその日まで食べ続けていたのかもしれない。
それにしても「あと千回の晩餐」とはなんといさぎよく美しい言葉だろう。
あと八百屋お七16歳から泉重千代126歳まで932人の臨終の様を描いた全三巻(上下巻+1)、
1000ページを超える超大作「人間臨終図鑑」も忘れてはいけない。
希代の唯物論者山田風太郎の死生観は、実に明快で「人間死ねば終わり」その一言に尽きる。
だからこそ感傷的な気分が入りやすい人間の臨終場面なんていうものを、一編の散文詩のように
描くことができたんだろうし、死によって人の一生を描くという、じつは相当難易度の高いこと
(しかも932人!)を成し遂げられたのだろうと思う。
たぶんこの人がいちばん伝えたかったことは、この900余人の人生の業績や幸福と彼らの死に方
には関係がない、つまり死に方なんてホントはどうでもいいんだってということ、そして「虚無」って
やつは人間にとって根源的なもので、身近な存在なんだよということだったんじゃないだろうか。
には関係がない、つまり死に方なんてホントはどうでもいいんだってということ、そして「虚無」って
やつは人間にとって根源的なもので、身近な存在なんだよということだったんじゃないだろうか。
2001年没 享年79、戒名は「風々院風々風々居士」、やはりユーモアは最高の知性なのだ。
ところでこの本、カバーの色調や使われている紙の質感がとてもいい感じだったので、奥付を
見たら、原研哉の装丁に志村節子の挿画だった、なんかちょっと得した気分。
*
□ ルイス・カーン建築論集 ルイス・カーン 鹿島出版会 20060130 6刷
カーンの建築論は詩のようだ。
カーンのその詩はとても素晴らしいものだけれど、彼の建築はもっと素晴らしい。
どんな建築論も、現実に建てられた建築物からしたら、一抹の砂にすぎないと思ったり。
でもこの本で講義している、オーダー、フォーム、シェイプ、インスピレーション、光と闇
といったカーン独特の抽象的なキーワードが、自分のリアリティとフィットしたときには、
きっと建物以上の存在感が、その人の中に住み着いてしまうんだろうとも思う。
けっきょくはひとつのことを言っているだけなんだろうな。
そしてそのひとつのことをしっかり身体で感じとることができたら、カーンの図面や建物が
くっきりと見えてくるんじゃないんだろうか。
□ マイルスを聴け 中山康樹 径書房 19920501 第1刷
平岡正明も認めるマイルス・フリークによるマイルスのレコードガイド。
何より驚いたのは、「ウイ・ウォント・マイルス」の「Back Seat Betty」に関する記載で、
「そこから最初に抜け出すのが、誰あろうマイルスだ。3分4秒目のオープン・トランペット
の1発!」っていうところ。
これって、このブログ3月8日のエントリーで書いたこの曲のこと、
「マーカスのベースリードではじまる2曲目「BACK SEAT BETTY」では、3分04秒のところ
でのマイルスの鋭いハイトーンのブロウにいつも、必ず、鳥肌が立つ。」
とほとんど同じじゃないか。
あの音を同じように感じている人のいることが何よりウレシイ。
□ テネシー・ウィリアムズ回想録 テネシー・ウィリアムズ 白水社 19781125 第2刷
帰郷したときに実家の書庫から拾い出してきた。
テネシー・ウィリアムズは「欲望という名の電車」や「焼けたトタン屋根の猫」で有名な
劇作家だけれど、演劇というものにまったく興味がないのにどうしてこの本を買ったのか
(しかも2500円という高額の新刊だ )ぜんぜん思い出せない。
学生時代の青臭いスノビズムか。
たぶん読了してはいないはずだし、これからも読みそうにない本だけれど、こうやってまた
本棚に並べるところを見ると、その青臭いスノビズムはちっとも直っちゃいないようだ。
翻訳者によるあとがきによると、「浮気と乱行、耽溺と嫉妬、狂態と奇行を次々に重ねた
驚くべき痴態記であって、傷ついた男の魂の放浪記」なんだそうで、そう言われると、
ちょっとそそられなくはないんだな、やはり。
□ 花鳥風月の科学 松岡正剛 淡交社 19940226 初版
松岡正剛の「千夜千冊」は本読みにとってひとつの橋頭堡なのかもしれない。
しかも日本文化の考察・編集というところでも、焦点が重なってしまうからなおやっかいだ。
「日本の歴史文化がつくってきたイメージの起源に多少の筋道をつけてみたい」
「今日本人が失っているかに見える、日本文化を説明できるグローバルで鮮明な論理を構築
するという試みを、『花鳥風月』という言葉を手がかりにして行ってみたい」
というのが本人が語る本書のコア・コンセプト。
山/道/神/風/鳥/花/仏/時/夢/月 という10のコードによるプログラムだ。
科学的というところにはいささか疑問を感じざるを得ないけれど、この人の博覧強記は
よく知られたところだから、「日本のソフトウェア」である「花鳥風月」が、そつなく
まとめられてるんだろうと思います。
でもなんとなくちょっと優等生すぎるような気がしてしようがない。
編集者に求められているのは、触媒として異素材をスパークさせることじゃないだろうか、
できれば HIP なスタイルで。
□ 原色日本の美術30 請来美術(陶芸) 小学館 19720210 初版
前々回のエントリーで紹介した「井戸茶碗の謎」を読み終えたら、井戸茶碗や高麗茶碗を
無性に見たくなってしまった(といってもただの大型カラー図版なんですが)。
やはり大名物の茶碗の存在感というのは、「焼きもの」を超越しているような気がします。
安吾先生だったら、なにがどうあれただの飯茶碗なんだから、それでお茶漬けでも食って
腹をふくらすことの方がよっぽど文化的だよ、なんておっしゃるかもしれませんが。