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2008.05.21

let the wind carry him

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これは果たして新たなる才能なのか、あるいは確信犯的なトリックスターなのか。

■ 原初的な未来の建築   藤本壮介   INAX出版  20080415 初版

新しい「言葉の建築家」の登場を感じる。

その新しさは、旧世代の論客(磯崎・黒川・隈)が文脈や論理として語ったことを、
コピーライティングのような感覚で軽々と表現していることだろう。

そしてその感覚は、この「関係性」の時代にふさわしいものかもしれない。

(1971生まれの彼にとっての取捨選択のモノサシは、「価値(旧世代はこれに拘泥した、
肯定するにせよ否定するにせよ)」ではなく、「関係(AよりBのほうがなんとなく、という
ような)」ではないかと想像する。当然ながら、「関係」には、正しい答えなんていうものは
存在しない。)

たとえばそれはこんな風だ。

□ 巣ではなく洞窟のような    人工と自然のあいだ コルビュジェのようにではなく
□ 5線のない楽譜   時間は、つまり空間は、関係性である ミースのようにではなく。
□ 離れていて同時につながっている   建築とは距離感を作り出すことであろう 0と1の間のグラデーション
□ 街であり、同時に家であるような   複雑な関係性が織り成すプリミティブな全体 パサージュ論
□ 大きな樹のなかに住むような   完結した部屋ではなく、関係しあう居場所 居場所の立体的なネットワーク
□ あいまいな領域のなかに住む   さまざまな密度の濃淡による「ぼんやりとした領域」
□ ぐるぐる   すべての「外」を内化し、すべての内を外化する渦巻き ぐるぐるは、身体化された無限である。
□ 庭   建築とは屋根のかかった庭である。庭とは屋根のない建築である。
□ 家と街と森が分かれる前へ   この家には屋根がない、あるいは厚い空気の屋根がある。
□  ものと空間が分かれる前へ   ものと空間は別々のものではない。音と沈黙は別々のものではない。 
(後半はちょっと苦しいね)

ここに提起されたきわめて感覚的な表現が、じつは建築のコンセプトではなく、
彼がこうありたいと描く建築家の平面図であることは、この本を読めばすぐわかることだけれど、
彼が巧みなのは、それがそのまま自分自身のための広告のコトバになっているというところだ。
そして、広告のコトバで現されているものはやはりマーケティング・タームということになる。

建築家に限らず、どんな職業であってもマーケティングやプロモーションが必要であることは
間違いないし、それぞれがそれぞれのやり方で行っているわけだけれど、建築家としての
マーケティングのターゲットを、金主である施主ではなく、建築界とマスメディアに絞っている
ところが、この人の頭の良さじゃないだろうか。

彼が何回もSDレヴューに応募し、入選・受賞しているのはけっして偶然ではなく、おそらくこの
「言葉と建築」というマーケティング手法を強く意識しているからに違いないし、「建築家」の建築は、
この島国では施主が決めるのではなく、建築界やメディアに流れる空気で決まるということを、
よくわかっているからだろう。

そしてその手法に(うまく)反応したのが、この本に寄稿している伊東豊雄さん、五十嵐太郎さん、
そして対談をしている藤森照信さんという建築界の面々だったようだ。

good job, sou.

初めて建てた建物が北海道の実家の精神病院(聖台病院)の別棟(施主は親)、JIA新人賞を
受賞したのが同じ北海道にある精神障害者生活訓練施設、そしてやはり北海道の情緒障害児
短期治療施設で JIA日本建築大賞、身内を泣かせながら受賞作を造っていくのは、
アート・コンシャスな建築家の王道でしょう。

彼自身は自分の造るものの総体を「space of intention(意図のない場所)」と表現している。
つまり、「space of no intention」という 強力な intention だ。

intention、すべてが意図するところ、確信犯的に、芸術のように。

「建築というのはすべて『つくられたもの』 だけれども、それを少し超えて『できてしまったもの』
のようにするこ とはできないかということです。すごく厳密な人工的なプロセスと、 『偶然性』や
『曖昧さ』とが同時に立ち現れるような形式がありえるのではないかと思うのです。」

ピカソやウォーホルやコルビュジェがそうであったように、現役で「売れる」ためにはアーティスト
自身のマーケティング能力は必須のものだ。 そういう意味では、この若者もいまのところ資格十分、
これからの彼の activity と その attitude は注目に値する。

その論がフェイクであれリアルであれ実はそんなことはどっちでもいいんだ。
建築には「建物」という変えようのない実質があるんだから。

「 Tokyo Apartment 」はイカしてます。
とにかく流されることなく自分がいいと思う建物だけを作り続けてください、「独裁者」的に。

 あなたのいちばんいいところは、自分が一番だと思ってないところじゃないでしょうか。

老婆心ながら。

 

*

晴れた日は晴れた日の、雨の日は雨の日の本が集まってくる。
なかなか思うようにはならないけれど、一冊でも心の奥底に触れるような本があればいいな
と思いながら、あちこちの本棚を流して歩く、ときにはインターネットのジャングルも。

■ 映画 X 東京 とっておき雑学ノート  小林信彦   文藝春秋  20080425 初版

遠くに住んでいる伯父さんからの手紙のような本が amazon から届き、そしていつものように
一気に読み終えた。

なんとも冴えないタイトルだけれど、週刊文春に連載されている時評コラム「人生は五十一から
 − 本音を申せば」の単行本もこれで10冊目になる。

晩年をむかえて、いわゆる雑文(実はコラムこそがこの人の本領じゃないかと思うんですが)を
書くことがめっきり減った小林さんだが(残された時間をできるだけ小説に集中したいと自らが
おっしゃっていますから)、この連載だけは律儀に続けていてくれている。

見巧者ぶりはおとろえず、
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を「CG仕掛けの人情喜劇」と断言し、マーティン・スコセッシを
大作ではなく小品に資質のある「生まれついての映画オタク」、そして昨年のアカデミー受賞を、
ポール・ニューマンのハスラー2のときと同じ、アカデミー会員の贖罪票だと喝破する。
タモリ倶楽部の空耳アワーが少しお荷物になってきたと見破るところなんかはこの人の真骨頂だ。

こうやって毎年春先に届くクロニクルは、お花見やダービーと同じ春の季語になってしまっていて、
老境に入ったこのヘンコな作家が今年も元気でいてくれるというだけで、なんとなくウレシイ。

■ ランボー全集 全一巻  アルチュール・ランボー/金子光晴訳  雪華社  19770325 5刷

ランボーは何冊かもっているけれど、金子訳となると買わずにおれません。

翻訳もの、とくに詩のような韻文は、訳者でぜんぜん変わってくる、その違いかくの如し。

<粟津則雄 訳>

酔いどれ船

おれが非情の大河をくだっていったとき、
おれを導く船曵きの綱の覚えはもうなかった、
かしましい赤肌の蛮人どもが船曵きを的にと捕え、
色とりどりの棒杭に身ぐるみぬがして釘づけていた。

<金子光晴 訳>

酔っぱらいの舟

ひろびろとして、なんの手ごたえもない大河を、僕がくだっていったとき、
船曵きたちにひかれていったことを、いつしかおぼえなくなった。
罵りわめくアメリカ・インディアンたちが、その船曵きをつかまえて、裸にし、
彩色した柱に釘づけて、弓矢の的にした。

まあ最後は好みなんですが。

■ ティファニーで朝食を  トルーマン・カポーティ/村上春樹訳  新潮社  20080225 初版

ヘプバーンではなく、ミス・ホリー・ゴライトリーのキュートな寓話。

これぞ都会小説そしてこれぞカポーティという佳作で、単行本で本棚に並べられるのはうれしいし、
ハルキの訳もサリンジャーの時よりは雰囲気がでているけれど、わざわざ再訳する必要があったのか
どうかと思ってしまうのは、「キャッチャー」と同様、これもまたマーケティングのなせる業か。

オープニングを少し。

旧版 <瀧口直太郎 訳>

私はいつでも自分の住んだことのある場所 – つまり、そういう家とか、その家の近所とかに
心ひかれるのである。

新版 <村上春樹 訳>
以前暮らしていた場所のことを、なにかにつけふと思い出す。どんな家に住んでいたか、近辺に
どんなものがあったか、そんなことを。

<原文>
I am always drawn back to places where I have lived, the houses and their neighborhoods.

・・・・ やはり原書で読みなさいということですね、これは。


■ 向田邦子の青春  向田和子  ネスコ/文芸春秋  19990528 2刷

向田邦子のエッセイは上質だと思う。

父の詫び状/眠る盃/夜中の薔薇、どの作品も軽妙で、品があって、文章がうまい。

遺作「夜中の薔薇」を読んでいるときに、ふとこの本に巡りあってしまった。
別にどうっていうことのない本だし、ちょっとオバサン趣味かなあとも思ったけれど、
こういうシンクロニシティを大切にしておかないと古本の神さまは微笑んでくれないのだ。

表紙のポートレイトが美しい。

■ 丘に向かってひとは並ぶ   富岡多恵子  中央公論社  19760705 再版

起きぬけに
きみが泣くことはない
それよりも
窓をあけて
入ってくる景色を
茶碗か皿にうけとって

とはじまる「 don’t explain 」という詩や、

思い出さないで
あの長い時間のこと
きみがわたしにマッチをすり
そのすきまに
きみとわたしの目が合った

ちょっと切ないこの「長い時間」なんかが昔から好きだから、
この人の本があると、読まないのについふらふらと買ってしまう。

ひょっとしたらこれを「腐れ縁」というんでしょうか。