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2009.06.23

konoatarino monode gozal

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― この辺りのものでござる ―

これは狂言の名乗り、つまり舞台に出たときの第一声なんだそうだ。

声に出して言ってみると、なんかちょっといい感じ。

中国であろうがタンザニアであろうが、狂言師たちはともかくこの台詞からパフォーマンスを始める。
今からここで演じるのは、600年前の日本の話ではなく、時代や場所や文化を超えた、どこにでもいる
太郎冠者が演じる道化や滑稽の物語なんだよっていうことを、「この辺り」という言葉で表現しているわけだ。

それを第一声で、しかも一言で、鮮やかに。

特定の人名を言うわけでも、どこか決まった土地を表すわけでもない。だけどとても普遍的で
「現在を生きる」同時代性をも感じさせる。狂言の精神が凝縮されたせりふかも( by 野村萬斎)

 
「この辺り」は、宇宙だ。

「この辺りのものでござる」と発するだけで、時間と空間がひとつになる。

「この辺り」だけじゃなく、狂言の名乗りには他のパターンもあって、たとえば「心の直ぐない者でござる」
というのは、オレは心がひねくれてる、つまり悪いやつだぞと、悪人があらかじめ自己紹介する台詞で、
悪人が悪人だといって登場すること自体が、もうすでにいかにも狂言だ。

狂言のことは、ほとんどなにも知らないけれど(本棚を探したが、狂言の本は一冊もなかった)、伝承される
伝統や型の凄さは工芸の世界で見せつけられている。
狂言も室町時代から連綿と続いている芸能なんだから、きっと懐の深いものが隠されているに違いない。

なにしろ 狂+言 なんだから。

ぜひライブで舞台が観たい、大阪城の薪能でも行ってみようかな。

*

全然関係ないけど、「名乗り」でなんとなく浮かんできたのが The Rolling Stones のある曲ことだ。

「悪魔を憐れむ歌(Sympathy for the Devil)」
1968年のゴダールの映画(One Plus One )でその制作風景が克明に描かれている。

その歌はこう始まる。

” Please allow me to introduce myself “

突然の名乗り。
でも彼は自分を、「I’m a man of wealth and taste(金持ちで趣味が良い)」と言うだけで、名前はいわない。
太郎冠者と同じように。

Please allow me to introduce myself
I’m a man of wealth and taste
I’ve been around for a long long year stolen many man’s soul and faith
I was around when Jesus Christ had His moment of doubt and pain
Made damn sure that Pilate washed his hands and sealed His fate
Pleased to meet you hope you guess my name
But what’s puzzling you is the nature of my game

まあ最後には Lucifer(魔王)と呼んでくれと、その名を告白し悪魔らしい傲慢な警告で終わるんだけれど、
まるで一幕の劇を観ているような歌で、ストーンズのステージのクライマックスで必ず演奏される曲として、
公式に発売されたライブアルバムには必ず収録されている。

そういえばミックのステージ・アクション( now and then)は、能とか歌舞伎とかの日本の古典芸能の型を
思わせることがあるんだよなあ。

ややこしや、ややこしや。

*

iPhone を使いだしてから、ほかの携帯電話がまったく気にならなくなった。
デザインっていうのはそういうことなんだなと、あらためて思う。

ハードウェアだけじゃなく、インターフェイスやシステム、そしてプロモーションまでも包含したグランド・デザイン。

良くデザインされたものには邪心を感じない。

色褪せないもの、quintessence って、きっとそういうものなんだろうな。

 

■ 鳥のように獣のように    中上健次    北洋社   19760620 初版

1992年46歳で夭折した中上健次のはじめてのエッセイ集。
アーティストはデビュー作に向かって歩むというけれど、この散文集は、その後の彼を予言しているようだ。
それが物語(fiction)ではないだけに、この人の「素」を、よりあからさま感じてしまうのだ。

ボブ・ディランの「血の轍(blood on tracks)」というアルバムがあるけれど、中上健次ほど「血」というものに
がっぷり取り組んだ作家はいないんじゃないだろうか。

誰しも出自というものがあるわけだから、「血」は避けられない必然だけれど、物語の根にそれを置くことは、
ひとつの確信だ。中上健次に根強い読者がいるのは、その確信の力強さに惹かれるからじゃないかと思う。
熱心な読者じゃないものからすれば、それが少し暑苦しくもある。

転がりつづける血の轍。

鳥のように自由に獣のようにしたたかに在りながら。

「さて、紀州というその風土に生れた小説家としてのぼくは、敬語、丁寧語のない言葉を血肉に受け、
人がいるのではなく、在る、在ってしまう世界を書こうとしているのだ、と言えば、自己解説しすぎるだろうか」

真摯に文学に立ち向かった小説家のリアルがそこに在る。

「どうかどさりといかにも一番速い便で貨物が届いたと、この本を受け取ってほしい。」

■ 映画的建築/建築的映画    五十嵐太郎    春秋社   20090430 初版 第1刷

どういうわけかこの人は人気がある。
この前の「建築と植物」もあっという間に売れてしまったし、この本も一度即売してこれが2冊目。

Wiki してみたら、2008年も3冊、今年もこの本で3冊目の上梓という勢い、本のタイトルが、「建築と植物」
「建築と音楽」「建築学生のハローワーク」「ヤンキー文化論序説」、そしてこの「映画的建築/建築的映画」と
いかにもインテリ・キャッチーなものばかりで、しかもパリ生まれで東大大学院というエリートだそうだから、
やはり注目のスターとして認知すべきなんだろう。

映画と建築というのは魅力的なテーマだ。
ハリウッドのオープンセットは建築そのものだし、黒澤明や小津安二郎の映像空間は、建築的解釈に溢れている。
そして建築というプロジェクトの制作プロセスは、映画のそれと酷似している。
どちらも、「空間と時間において展開する視覚的な表現」だからだ。
(映画監督と建築家の差異は、イメージの中にフレームがあるかないかということに尽きる)

また、実際の建築が、ランドマークあるいはイメージを形成するシンボルとして映画に登場することも多い。
「ワールド・イズ・ノット・イナフ」のビルバオ・グッゲンハイム、「ブラック・レイン」のキリンプラザ大阪、
「シャイニング」のオーバールック・ホテル、古くは「キングコング」のエンパイア・ステート・ビルディングなどが、
その典型だ。

この人の文章はちょっと軽い、というか奥行きがない。
初出誌の性質はもちろんあるだろうから、この本だけで判断するのは酷かもしれないけれど、彼がもっている
シャープな視線や評論家としてクレバーなところが、文体で表現されていないように思えてしかたがない。 
雑誌に書きすぎなのかなとも思うけど、やっぱり批評のコアは文体だから、それが弱いとなんか読み返す気が
あまりしないのだ。
ひょっとしたらホントに視えていないのかとも思ったり。

なんていうことをウダウダ書いている間に、また売れちゃった。
やっぱり人気あるね。

■ 室町小説集    花田清輝    講談社   19731108 第1刷

小説集と銘うってはいるが、評論なのかエッセイなのか小説なのかよくわからない。
そのないまぜな感じが、「ランティエ(高等遊民)ではないが『魅力のある悪家老』( by 川本三郎)」と評された
この人の味わいか。

たぶん、谷崎潤一郎は、偉大な小説家なのであろう。わたしもまた、かれの才能をみとめないわけではない。

冒頭の「『吉野葛』注」の書き初しからしてこんな風なのだ。

そして物語は、その谷崎潤一郎の吉野譚から連作のような流れで、南北朝の話、失われた三種の神器のひとつ
“玉”を巡る、吉野川源流の山奥での武家、公家、入道、神官入り乱れての争奪の顛末が、虚々実々に描かれる。

「吉野葛」注 / 画人伝 / 開かずの箱 / 力婦伝 / 伊勢氏家訓

通底するのは、室町期の「日本のルネッサンス人」の姿だ。

この人のレトリックを駆使した変幻自在なその筆致は、読むものを揺さぶり、転がし、泡立たせる。

まるでグレイトフル・デッドのサイケデリックなROCKを聞いているみたいだ。

■ 装幀時代     臼田捷治    晶文社   19991005 初版

労作。

本のデザインとそのデザイナーを丹念に描いたその仕事ぶりに敬意を表したい。

紙と活字(タイポグラフィ)と印刷技術。
素材から考えると、装幀は職人的要素の強いデザイン・ワークだなと思う。

でも本好きにとって本の佇まいは、ひょっとしたら内容以上に重要な要素で、その中に書かれていることが
いくら面白くても、全体の気配がそのときの気分にフィットしないと、その本は本棚には並ばない。

函・ジャケット・帯・表紙・見返し・扉・目次・本文・奥付、それらのデザイン・トーン・レイアウト・テクスチュア、
あるいは活字・行間、そして余白。
本の物体としての存在感は、こういったものがプロの手で絶妙に組み合わされたときにだけ際立つのだ。

この本は、日本を代表的する装幀家11人(原弘、吉岡実・栃折久美子、粟津潔、杉浦康平、和田誠、
平野甲賀、田村義也、司修、菊池信義、戸田ツトム)を作家論としてを紹介しながら、「装幀」からの視線で、
出版文化全体を見通している。

自著の装幀もした詩人として萩原朔太郎、室生犀星、北原白秋、北園克衛、瀧口修造も論じられている。
なかでもVOUの詩人、北園克衛のデザイン・センスには圧倒される。

美しい本は、珠玉である。

そしてその珠玉は、卓越したデザイナーの手からしか生まれてこないのだ。

 

■ 私の食物誌     吉田健一    中央公論社   19781020 11版

吉田健一は、吉田茂の長男、現職総理大臣のお母さんのお兄さん、つまり叔父さんにあたる。

文筆家としては、ヨーロッパの文学が主戦場の人だけれど、エッセイでは食べ物の話も何冊か書いていて、
この本は読巧者の丸谷才一さんが「戦後の日本で食べもののことを書いた本を三冊選ぶとすれば」の一冊に
あげられている(あとの2冊は、邱永漢「食は広州に在り」と檀一雄「檀流クッキング」-さもありなん)。

こういう本職から離れた趣味的な本というのは、リラックスして書けるせいか、その人の素の姿や、
もともとの文体が表れることがよくあるけれど、この本はそういったものの典型だろう。

食べ歩きのエッセイは、芸のない人が書くと蘊蓄やトリビアにいってしまうものだけれど、この本には、
そんなものは気持ちがいいくらい存在せず、「うまいものを呑み食いする」ということの本質的な意味を
探しながら散歩する(いささか哲学的な)吉田健一の姿が、ただあるだけだ。

冒頭の「長浜の鴨」の一節を引用する、少し長くなる(短い引用を許さない文体なんだ)。

「これは琵琶湖にいる鴨のことなのだから長浜でなくてもよさそうなものであるが、どういう訳か長浜の辺で
取れる琵琶湖の鴨は旨い。又長浜の鴨と特に呼ばれてその季節には神戸のホテルの食堂などにも出る。
広島の牡蠣とか明石の鯛とかいうのと同じことなのかも知れない。勿論冬食べるので、それがどうも厳密に
二月一杯のことのようで前に一度それほどとも思わずに三月一日に食べにいったら何か味が違っていた。
長浜に行くとその鴨を食べさせる店が幾らもある。ただ何か出しを入れた鍋で煮て食べるだけのことであるが、
それが鴨の味がする。これは妙な言い方で他にもっと旨い説明ができる筈であってもその味以上のものは
ないと食べながら思うのが結局は鴨の味ということに落ち着く。」

饒舌体とでもいえそうな独特の文体と比喩は、決して読みやすいとはいえないけれど、その味わいは渋く、甘い。

洒脱な造本と滋味深い文章、余裕がなければ本はこういう仕上がりにはならない。

and so on,

■ 変幻する神々 アジアの仮面    杉浦康平編・構成  日本放送出版協会  19810610 初版

■ 屋根裏のミニ書斎     芦原義信    丸善株式会社   19840630 初版

■ 笑う月     安部公房    新潮社   19751125 初版

■ 夢について     吉本ばなな    幻冬舎    19940909 第1刷

■ モダン・ジャズのたのしみ     植草甚一    晶文社   19901220 21刷

■ 私の岩波書店     山本夏彦    19940621 第2刷

■ 良心的 夏彦の写真コラム     山本夏彦    新潮社   19910320 初版

■ 利休にたずねよ     山本兼一    PHP研究所   20090204 第1版第3刷

 

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最近追加した「読む音楽も面白い」のブックリスト。

SPOT LIGHT 特集企画第4弾、「 ミーツ・リージョナル編集室の半井裕子さんが選んだコトバノイエの30冊」公開中。
気鋭の女性エディターのセレクションをお愉しみください。

 

http://kotobanoie.com