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2008.12.10

better than i thought

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高村薫の住宅についてのコラム「家のつぶやき」は、予想していた以上に面白かった。
孤高ともいえる女流作家に、住宅のことを書かせた日本経済新聞の編集子のファインプレイだろう。

1200字26話のあちこちに慧眼が光る。

それは最初のコラム「景観」のこんな文章を読むだけではっきりとわかる。

「個々の建物と周辺の建物と自然を含めた〈景観〉という発想は、この国には最初からなかった
に違いない。(略)窓の外に見える風景が、個々人の暮らしの中にある程度のウエートを占める
ようにならなければ、住宅の成熟はなく、街としての〈景観〉が生まれることもない。」

また、かつて暮らした大阪千里にある集合住宅(団地)を論じて、欧米に比べての40年という
その寿命の短さを指摘し、

「メンテナンスの不備ではあるまい。たぶん建造物として、初めから住民が愛着を持つだけの
価値のないものだったことが、老朽化を早めているのだ。」

と見破っているのも、そうとうシャープな批評眼だ。

さすがに2クールにわたる連載の後半でやや息切れの気配があるのが残念だが、なにごとに対しても
真摯にとりくむ彼女の硬派ぶりにはあらためて感心させられるし、ストーリーのあるなしにかかわらず、
ブレることのないしっかりとした視点が、安心して読める文章の基点だということがよくわかる。

ベランダの当惑/年をとらない家/家屋の陰影/閑静な住宅地/マイホーム幻想/エゴを超えて

関西の人だけに、彼女が語るその風景になんとなく親しみを感じます。

某日、デザイナーのTさんに本を選んでいただいた。
矢部さんに続く「コトバノイエの30冊」第2弾のためのセレクションをお願いしたのだ。

天気のいい日曜の午後、遅めのランチをとりながらのセッションだったので、はじめはわりと
のんびりした気分だったんだけれど、挑むように本棚に向かうTさんの姿を眺めているうちに、
どんどんテンションがあがってきた。

少しずつ積み上がっていく予想もつかないタイトルを見ているのはとてもスリリングだったし、
選んだ本にまつわるあれやこれやをおうかがいした選後のインタビューもなかなか興味深い
ものだった。

なんであれ本を選ぶというのは自分の何かを晒すことでもあるし、あらかじめひとつのフィルター
をかけられた本棚からのセレクション(しかも冊数まで限定されて)なんてけっこうやっかいな
ことじゃなかったかと(無責任にも)思うけれど、選ばれた本たちのちょっと嬉しそうな佇まいや、
ひとつひとつのメッセージを整理していくうちに、全体の景色がなんとなく浮かんできた。

服のデザインをする人との本を介してのセッションができるなんて思ってもいなかったことだから、
これから作成するウェブページが、快くこちらの申し出を受け真摯に取り組んでいただいたTさん
に喜んでいただけるような、そして見ていただいている方に今感じているこのワクワクした雰囲気
がうまく伝わるようなものになればいいなと、あらためて期する次第。

Be looking forward to it !

でもホント、予想以上に楽しいセッションでした。

/

そしてまた某日、
ディランに続いてマーティン・スコセッシが撮ったストーンズの「 Shine a light 」を観た。

すでにDVDで発売されている映画を、封切りのシネコンで観るというのもちょっと微妙だけれど、
やはり大きなスクリーンで観るのは気持ちいいし、なんといっても音の迫力がちがう。
トレイラーを見ているとタダのコンサート記録のようにも思えたこの作品が、しっかりと練られた
上質の「映画」だったのはちょっと予想外だった。

さすがスコセッシ(ミックやキースと同世代の戦中派だ)、ただでは転ばない。

コンサートは素晴らしいものだった。
キースのテレキャスターの一撃からはじまるオープニングの Jumpin’ Jack Flash には、
鳥肌ではなく、一瞬涙がでそうになった。

スコセッシは movie をわかってる。
ミックは camera をわかってる。
キースは rock をわかってる。
ロニーは stones をわかってる。
そしてチャーリーは stones そのものだ。

このスペシャルなコンサートは、わかってる大人たちの移動祝祭日だったようだ。

“のどが渇いたらシャンパンを飲もうぜ、トビたかったら reefer(マリファナ)をキメればいいさ”
なんていう曲( Champagne & Reefer by Muddy Waters) もプレイしていたが彼ら自身は
no dope(シラフ)のステージだった。
ストーンズといえばいつも dope のことが話題になったもんだけれど、今はそういうものからは
完全に解放されたようだ、キースのクリーンな眼を見ればそれがよくわかる。

生き残ったロッカーたち。

彼らがバンドを始めた頃、新しくて反抗的な存在だったロックが、すでに古い音楽スタイル
になっているということは、たぶん彼らもよくわかっている、でもこんな風に人の心を震わせる
ことができるんなら、スタイルなんてなんの意味もないよね。

けっきょくは、Blues の力かなと思う。

最高の一曲は、ミックがとても照れくさそうに「この曲を作った時、恥ずかしくて他人に歌って
もらったんだ(当時の恋人マリアンヌ・フェイスフルに贈った曲でした)」と呟いてはじまる
so sweet な「 As Tears Go By」、キースのメロウで、そして hip なアコースティックの12弦は
シブすぎて、今にもブライアンが降りてきそうだった。

ちなみに2006年の秋にブロードウェイの Beacon Theater という由緒ある劇場で開かれたこの
コンサートは、クリントン元大統領が自らの60才の誕生日を祝して主催したプライベートな(!)
ものだったそうで、もちろんご本人もヒラリー次期米国国務長官も、そして彼女の母親も映画に
登場、そしてこのコンサートのオープニングのMCは、なんとクリントン自身だったのだった。

それにしても、ストーンズには NEW TORK CITY がよく似合う。

*

 

ここ最近の本買の何冊かを

■ 人間失格    太宰治   筑摩書房   19480725 初版

ダザイの初版、しかも絶筆の「人間失格」と「グッドバイ」とは、ちょっとエキサイティング。

この小説「人間失格」はこの本が発行された年の「展望」の8月号で完結、本人はその6月に
逝ったんだから、その初出誌を見ることはなかったわけだけれど、文学誌の8月号の掲載
作品とその死によって中断された新聞小説が、臼井吉見の追悼あとがきを付して7月25日に
上梓されているそのスピード感は半端じゃない。その死に方がセンセーショナルなものだった
だけに、この本は話題作となり、当時としては大ベストセラーの20万部(おそらく紙を集める
のにそうとう苦労したんじゃないだろうか)を売り切ったそうだ。
今も昔もマスメディアの売れるものへの嗅覚はたくましい。

凡百の例にもれず、若いときに太宰作品のひととおりの洗礼を浴びているけれど、その含羞的
というか露悪的なデカダンよりも、ひとつひとつのフレーズの鮮やかさが心に残っていて、その
言語感覚は、今の世ならコピーライターとしても一家をなしていたのではないかという気がする。

「恥の多い生涯を送って来ました。
自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れました
ので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、
上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然
気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにする
ためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思って
いたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜(あかぬ)けのした
遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたの
ですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを
発見して、にわかに興が覚めました。」

ちなみに、英訳でのこの作品タイトルは、「No Longer Human(by Donald Keene)」

なるほど。

 

■文字とデザイン TYPO-GRAPHICS    中島英樹   誠文堂新光社  20080501 初

確かにオリジナルフォント「 Nakajima Thin 」は美しい。
そして文字というものにこれほどまで執拗にこだわるデザイナーがいるのはとても心強い。

「日常にある風景写真であろうと、それが文字を感じるのであればタイポグラフィと呼んでいい。
文字の気配がすればそれはもうタイポグラフィである。」

これはもうメタフィジカルな文字表現至上主義といってもいいんじゃないだろうか。

「タイポグラフィ」というものへのモノサシがないので、作品の評価なんてとてもできないけれど、
インタビューで彼が言っている

「大事なのは『気持いいこと』を実現していくことなわけだから、例えばベジタリアンでもまずい食事を
我慢しているならエコじゃないんじゃないか。某大手自動車メーカーがエコを前面に出していますが、
本当の意味でエコを実践しているのは、フェラーリなんじゃないか、とか。なぜなら、フェラーリは捨て
られない車を作っているわけで、ゴミにならない。大量生産・大量消費のエコカーが本当にエコロジー
といえるのかって。」

という考えには大同意。

とにかくデザイナーの要諦は、まずゴミを造らないということでしょう。
ゴミのようなデザインのなんと多いことか。

坂本龍一のCDジャケット、ISSEY MIYAKEの広告、shu uemuraのパッケージなどはこの人の作品。
ジャケットデザインが原点だと彼はいっている。

けっこうROCKな人かも知れません。

 

■ やきもの談義            白洲正子/加藤唐九郎    駸々堂   19761020 初版

言いたい放題だよ、
“窯ぐれ” 唐九郎(79才)と”韋駄天お正”こと白洲正子(66才)の対談。

「日本人の好み」「信長の魅力」「中国文化の影響」「芸術と恋愛」など、やきものだけでなく古今
東西の美をめぐるダイアローグで、さすがにお二人とも確固たる美意識をもっていらっしゃったことは
よくわかりますが、造る人と見立てる人の違いが最後のところではっきりと浮かび上がってくるのが
この対談のもっとも興味深いところでしょう。

唐九郎さんが、青山二郎のことを仁清のやきものみたいだと喝破しているのは痛快。

でもまあ年寄りは無敵だな。
こういうのを読むと早く年寄り(それも嫌われる年寄り)になりたくなってしまうんだ。

■ 人間人形時代    稲垣足穂 松岡正剛/杉浦康平  工作舎    19750101 初版

足穂の作品集というよりは、松岡/杉浦作品ととらえるべきか。

稲垣足穂という稀有な文学素材、1975年発行の本に1975円という値段、杉浦康平による造本、
本の真ん中に穿たれたTarupholeという7mmの孔(マルコヴィッチの穴みたいだ)、執筆年もテーマ
も違う文章による3部構成。
スーパーエディターを自称するSeigow氏の、おそらく快心の一作ではないかと思いますが、70年代
という時代背景はあるにせよ、too much intention の感は否めません。

あからさまな作為は編集の敵ではないのか。
エディターのコアは、「やりすぎない」ことではないのか。

This production design  is not hip.

もちろん足穂翁の作品は文句なし、
とくに幻といわれていた初期作品の「宇宙論入門」が読めるのは素晴らしいのですが。

 

■ 横尾忠則日記 一米七〇糎のブルース   横尾忠則   新書館   19691215 初版

また買ってしまった横尾本、でもコイツはちょっとスゴイぞ。

「横尾忠則遺作集」という粟津潔編集の作品集を除けば、これが横尾さんの処女文集なのだ。

寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」なんかと共通するこの時期のポップな横尾デザイン。

1962/10/25から1969/11/05までの日記/エッセイ群は、60年代のクロニクルといってもいいでしょう。
横尾さんのアートの原点がここにあります(じつは今もあんまり変わってないように思うけど)。

「今、私がいちばん欲しいものは二糎米である。
あと二糎米で私の身長は一米七〇糎になる。
もし私の身長が一米七〇糎あったなら、私はどんなに大きな自信をもつことができたか知れない。
この本に集められた過去数年のエッセイは、すべて私の願望を表したものばかりである。」

期せずして1969年、初版・検印付きです。

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