「美とは、それを観たものの発見である。創作である。」と嘯いたのは青山二郎。
それを小林秀雄が「美しい花がある、花の美しさというものはない。」と受けた。
「見立て」のことである。
□ ひとりよがりのものさし 坂田和實 新潮社 200611255刷
芸術新潮の白眉ともいえる同名の連載エッセイ(1999/01~2003/05)をまとめた美しい本だ。
内容・体裁・装幀・写真・組版・印刷どれをとっても完成度が高く素晴らしい。
50の美しいモノたちの話。
東京・目白「古道具坂田」の店主坂田和實さんが収集し、彼のアンテナに反応したものだけが
選ばれ、そして語られている。
李朝の平瓦、ドゴン族の木の扉、ブリキのヒコーキ、韓国のうなぎ取り、ダンボールの家、虫籠・・・。
それは けっして junk art なんかじゃなく、まさに「見立て」の美としかいいようのないものだ。
この本に載せられた様々なモノたちを眺めていると、千利休が朝鮮の田舎の丼鉢を「井戸茶碗」に
変身させたように、赤瀬川原平がただの階段や窓の痕跡を「トマソン」と名づけ、超芸術(自己表現
が消滅したところに作品性を感じとるところが「超」たる所以ですが)作品に仕立ててしまったように、
この人の眼がまっすぐに古道具とよばれるオブジェクトに注がれ、どこにもない美しさを発見している
ことがよくわかる。
見立て、そして目利き、骨董・古美術の世界はその概念を中心に周っている。
それはひどく日本的な美のありかただと思うけれど、何らかのメタフィジカルなプログラムなしに、
たとえば階段の手すりやブリキの茶缶やパチンコ台などを美しいものとして愛でることはできない。
「見立て」というのは、まさにそのプログラムのひとつで、目利きなるものが存在するのは、その
プログラムが決して一般化されるものではなく、きわめて個人的な感覚(ひとりよがり)の中にしか
ないことを物語っている。
もちろん知識や経験がそのベースだけれど、最後はやはり感性の勝負、自分の眼が信じきれるか
どうかということなんだろう。
そして目利きによって見立てられたものは、利休が見立てたさまざまな茶道具たちが、茶室という
空間でこそその輝きを放ったように、彼が「しつらい」を施した空間(たとえそれがイメージの中だけ
だったとしても)に置かれてはじめて普遍的な美へと昇華する。
だからモノにたいしてこれだけの「見立て」力をもった人が、それを入れる器、私設美術館の建築へ
と向かったのは、とても自然なことのように思える。
行ったことはないけれど、「 美術館 as it is 」は、ひょっとしたら茶室そのものじゃないのかとさえ思う。
この前「手元に残したい本」をセレクトしているとき、この「見立て」ということが頭をよぎっていた。
選んだ本の中に、たぶんその本(オブジェクト)でなければ、同じタイトルの本があったとしても、
リストに残していなかっただろうと思われるものが、けっこうあることに気づいていたからだ。
もちろんそれぞれの本にまつわる個人的な記憶がそうさせたのかもしれないけれど、それよりも
やはり、その本のもっている佇まいや読まれた本(古書)としての存在感のようなものを、
セレクションのもうひとつのものさしにしたいという想いが強かった。
商売から離れ、「ひとりよがりのものさし」で見立てられた「 美術館 as it is 」の古道具のように、
「kotobanoie permanent collection」 が、もうひとつの別の棚に収まったとき、なにかしら美しい
景色になっていればいいな、なんて考えていたんだ。
できればずっと、 as it is (唯そのまま)でありたいけれど。
*
見立てのこと気にしていたら、それにまつわる本が集まってきた。
新刊本なら探して買うから当たり前のことかもしれないけれど、古本の本買は出会いだから、
こんな風にそのときの自分の興味とうまくクロスオーバーすることってそれほど多くない。
やっぱり旗を揚げてしまうことが、まず大切なんだな。
□ 見立ての手法 日本的空間の読解 磯崎新 鹿島出版会 19900810 初版
言語的建築というコトバがあるなら、おそらく磯崎新はその第一人者だろう。
ま・かつら・にわ・ゆか・や・かげろひ、といういかにもの6部構成のなかで、「見立て」を庭園論の
文脈で語っている。
「『見立て』が日本の芸術のみならず、更に広範な自然認識に共通した姿勢であり、自然を観照し、
それを言語化する過程にメタフォアの作用として深く入り込んでいることも指摘可能と思われた。
それをとりあえず庭園論において語ろうとしたもので、本来は更に広範囲の作業へ展開できるとも
思われるし、数々の日本の空間の特性について論じてきた私自身の視点に深くしみこんでいる。」
まあこの人のデザインとは別の話だけどね。
□ 見立て狂い 草森紳一 フィルム・アート社 19821201 初版
まずタイトルが秀逸。
レコードもそうだけど、タイトルのセンスや体裁の良いものは、中身も濃いことが多いのは経験則。
「見立ては、対立の関係であり、ないしは前提を条件とするが、独立したときは、前提や対立の
関係の喜びをはるかに超えた輝きをもち、見立てのノイローゼの空間を脱出している。もっとも、
めったにそうなることはない。」
面白そうなコラムがたくさんあって、あちこちに慧眼が光っています。
調べてみるまで知らなかったんだけれど、この3月29日に亡くなられたそうだ、享年70、合掌。
□ 井戸茶碗の謎 申翰均 バジリコ 20080330 初版
新古本、これも見立てがらみである。
利休が見立てた大名物「井戸茶碗」は、果たしてほんとうに朝鮮の雑器だったのか?
「朝鮮の雑器から美を発見し天下の名物に昇華させたのは、日本の茶人の審美眼(見立て)だ」
という定説(by 柳宗悦)に対し、この韓国の陶工は、「無為のように見えて無為ではなく、人為を
通じて無為的美しさ、すなわち自然美を素直に表現した創造的匠の精神の結果である。」と、
目利きたちの見立て論を真っ向から否定している。
日本のやきもののプロたちが、ただただ大名物と崇め、あまり触れてこなかった「井戸茶碗の正体」
に真正面から取り組んだことだけでもそうとう意義があることなんじゃないかと思う。
歴史/文化ミステリーといってもいい快作。
□ イラスト・ルポの時代 小林泰彦 文藝春秋 20040915 初版
ひとつの60年代考現学。
60年代後半のサンフランシスコやロンドン、パリ、そしてニューヨークで、ヒッピーと呼ばれた当時の
若者たちはどんなシャツやジャケットを着て、どんな靴で街を歩いていたのか、コンサート会場では、
マリファナはいったい何ドルで、観客にどのように売られていたのか、ややこしい文章じゃなく、
イラスト・ルポという軽妙なスタイルだからこそ伝わるリアリティが、この本の中に横溢している。
まさに、メディアはメーセージである。
取材するほうもされるほうも、なんか不思議な高揚感に満ちていたことが紙面から伝わってくる。
この泰彦さん(小林信彦さんの弟)を発見したのは、POPEYE・TARZAN・GULLIVER・BRUTUS の
名編集長石川次郎さんです。
□ ディランが街にやってきた ローリングサンダー航海日誌 サム・シェパード サンリオ 1978
昨年11月のディランのエントリーで欲しいと呟いていた希少書を、新刊古書をテーマ別に取り混ぜて
並べる “The robby” という新しいブックショップで入手できた。
これで原書と翻訳がそろったことになる。
こんな本をそんなそろえかたしているモノ好きなんて、まああまりいないだろうと思うと、なんだか少し
ウレシくて、おもわず微笑んでしまった。
けっこう高かったけれど、ただのコレクターアイテムかも。
□ THE REAL FRANK ZAPPA BOOK FRANK ZAPPA POSEIDON PRESS 1989
ロック界最大の怪人、FRANK ZAPPA氏の自伝、マニア必携の1冊であることは間違いありません。
ZAPPA のステージは確か2回見ているはずだ。
大阪での最初にして最後となった1976年の来日コンサートと、たぶん1978年のL.A. The Forum。
どちらのコンサートも、最初から最後まで音がずっと途切れることがなく、どこからどこまでが一曲で、
どこからどこまでがアドリブでやってるのかということさえもわからない凄いものだったけれど、
とにかくZAPPAがピョンとジャンプするたびにリズム(それも複雑な変拍子)が変わったのが、強烈に
記憶に残っている。 今から思うと、歴代ドラマーに超絶技巧の人が必要だった理由がよくわかる。
とにかく超真面目な人だったようで、才能あるオタクといってもいいかもしれない。
曰く、「宇宙には普遍的なものが2つある。水素と愚かさである」
THIS IS FRANK ZAPPA!