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2008.03.08

all that jazz

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偉そうに語れるほど聴きこんでいるわけじゃないけれど、マイルスが好きだ。

□ ウイ・ウォント・マイルス  平岡正明   河出書房新社  20021230 初版

平岡正明は一刀両断の人だ。

その方法論は、直感的な、そして一見場違いと思えるようなテーゼをまず炸裂させ(たとえば
それは「山口百恵は菩薩である」といった調子だ)、それを読むものの気持ちを揺さぶりながら、
その強引な断定へと至る放物線の軌跡を描写するといったスタイルで、それは評論というものの
本質である「事実性ではなく真実性を提示することで精神を活性化させること」へのジャズ的な
アプローチのように思える。

そして力まかせに(あるいは緻密に計算され)投げだされたそのテーゼは、それが異境的であれ
ばあるほど、ぼくたちの妄想を誘引する地雷となるわけで、平岡正明はそれを得意とするアジテー
ター(扇動者)といってもいい。

「俺は断言しはじめているが、マイルスが考えたことならだいたいわかるつもりなので、このまま
押す。 ジャズマンにおける北アフリカ感覚は、マイルスにあっては『スケッチス・オブ・スペイン』
の『ソレア』がフラメンコの底をモロッコに抜いたかのように感じさせ 、コルトレーン『オーレ!』
の『アイシャ』という曲が、スペイン回教国最後の教主ボアブディルの母の名であり、そのラスト・
エンペラーの母が、敗れてアフリカに帰る息子の船を城壁に立って見送る嘆きのジャズである。

そんなことがなんでジャズと関係するのかって? グラナダ回教国陥落が1492年1月、コロンブス
のアメリカ到着が同年10月である。1960年代初めに、すでにアメリカ黒人のジャズメンは『スパニ
ッシュ』という語の中に、ヨーロッパの勝利とその後のアフリカ黒人の命運を見ていた。複合リズム
とは複眼の世界観のことである。」

文章そのものがほとんどジャズだよ。

そして「ジャズより他に神はなし」と嘯いたその平岡正明が、「帝王」マイルス・デヴィスを書いた。

(平岡正明は、この本から「デイビス」という表記に改めたとあとがきに記している。それまでは
「デヴィス」と表記していたわけだけれど、昔からのジャズ通は、あたまのデ」ではなく、「ヴィ」
にアクセントをつけて「デヴィス」と呼んでいた。正しくは「デイビス」かもしれないけれど、
「デヴィス」のほうがなんとなく気分だ。)

表題の「 We Want Miles 」は、マイルスのアルバム(1981)のタイトルでもある。

ブラックでファンキーな「On The Corner」やクールでスタイリッシュな「Kind of Blue」も素敵だ
けれど、このアルバムのマイルスは最高だ。

「自堕落に過ごした」と自らがいう5年間の沈黙を破って、マーカス・ミラーを含む新しいバンドで
展開された1981年のツアーから Tokyo, New York, Boston でのライブ・レコーディングを、テオ・
マセロがプロデュースしたこのアルバムは、マイルス的カリプソ「JEAN PIERRE 」で密やかにス
タートし、マーカスのベースリードではじまる2曲目「BACK SEAT BETTY」では、3分04秒のとこ
ろでのマイルスの鋭いハイトーンのブロウにいつも、必ず、鳥肌が立つ。

このファンファーレからはじまる5分きっかりのマイルスのソロとそのバンドが造りだすグルーブは、
ジャズという音楽でしか表現できない緊張感とスリルに満ち溢れている。

バックのミュージシャンたちが、マイルスのアドリブが泡立つにつれてどんどんハイになっていき、
マイルスが導くグルーブの虜となっていく様子が手に取るようにわかるし、おそらく客席のオーディ
エンスもその波に巻き込まれ、ある種のカタルシスを感じているはずだ。

そして、マイルスはまるで司教のように、その祝祭のすべてをコントロールしている。

アルバムは、ビル・エバンスのジャジィーなソプラノサックスとマイク・スターンのほとんどロック
といってもいいようなへヴィなギター(なにしろストラトですから)をフィーチャーしたガーシュウ
ィンの歌劇「ポーギーとベス」からのバラード 「MY MAN’S GONE NOW」 を経て、この当時とし
ては最新のリズムだったレゲエビートのテーマをベースに、 4ビートのブルース – ダブルビートの
バップへと、フリーなリズム展開を見せる「KIX」でフィナーレ。

In a Silent Way(1969)」にはじまるエレクトリック・マイルスといわれる晩年期 のマイルスの
音楽は、ブラックミュージック全体を包括しているようなスケールの大きいビート感を持っていて、
村上春樹的なニュアンスでいうと jazz ではないかもしれないけれど、「groove」という感覚が
コアだと考えると、あきらかにそれは jazz としかいいようがないものだ。

そしてなによりも、平岡正明がいうように「マイルスがやるのだから、それは jazz 」なんだ。

*

奈良公園の近くで、週末にしか開けていないという古本屋に入り、何冊か買った。
ちょっとした旅先で知らない古本屋に立ち寄るのはとても愉しい。

□ 行動主義 レム・コールハース ドキュメント 瀧口典子  TOTO出版  20040315初版1刷

コールハースは脚本家としてのキャリアのあとに建築を学んだという異色の経歴をもったオランダ
人の建築家だけれど、どちらかというと理論家あるいは思想家としての印象のほうが強い人だ。

独自の論理の構築というのは、ていねいにチョイスしたコトバをひとつひとつ重ねていくことだし、
リアリティのあるコトバは、確信的なモチベーションをもった行動からしかでてこないということが、
この本を眺めているとよくわかる。

なんといっても顔の迫力が尋常じゃない、OMAのプロジェクト・ブックレットってやつを見てみたい。

 

□ 走ることについて語るときに僕の語ること      村上春樹   文藝春秋   20071015初版

あれば買ってしまうのが口惜しいけれど、だんだんこの人が好きじゃなくなってきた。
「アンダー・グラウンド」以降のハルキは、あきらかにポテンシャルが落ちているような気がする。

この本も、イントロをジョークで始めるところに「テレ」のようなものが入っているのはわかるけれど、
真の紳士の条件に「健康法を語らない」ということをあげておいて、「僕は紳士ではないので」と捻り、
さらに「どんな髭剃りにも哲学がある」とモームを惹くのは、正直というよりずるいよっていう感じだし、
本文最初の章で、タイトルにミック・ジャガーというキャッチーな固有名詞をつかい、「45歳になって
『サティスファクション』をまだ歌っているくらいなら死んだほうがましだ。」というミックのコトバを引き
合いにして、柔らかい語り口でこんな風になることを「想像もできなかった」というところに強引に
持っていってしまうのも、タチが悪いとしか言いようがない。

いくら長く続けているといったって健康や自分がやってるジョギングのことを、したり顔で語るのは
やっぱり HIP じゃないよ。

小説を書きなさい、作家なんだから。

本文中に一ヶ所だけ書き込みを見つけてショック。
なんで「過客(ルビはゲスト)」なんていう陳腐なコトバに黒々とボールペンで丸をつけるかなあ。

 

□ 独白するユニバーサル横メルカトル    平山夢明    光文社    20061210 4刷

奇をてらったような衒学的なタイトルがちょっと「青くさい」気がしたので迷ったんだけれど、「この
ミス」一位/日本推理作家協会賞受賞という帯で買ってしまった。

でも怖すぎてまだ読めない。

怪談実話のスーパースターということだけれど、奇妙な個性である。

それにしてもミステリーというジャンルが、スプラッターやスカトロまで拡がってしまうと収拾が
つかなくなるんじゃないだろうか。

□ I,etcetera    SusanSontag    VINTAGE BOOKS    1979

□ THE DOORS OF PERCEPTION     Aldous Huxley  PENGUIN BOOKS 1967

60年代の硬派知識人の代表格であるソンタグと、50年代のビートニク世代のアシッド/メスカリン
作家ハクスレーのペーパーバック、どちらもヒッピーのある種の教祖的存在だから、原書が均一
棚にあると読めないくせに買ってしまう。

WIKI によると、ソンタグはその著書「隠喩としての病い」でも明らかなように、30年間進行性乳癌
と稀な形の子宮癌を患っていて、2004年にその化学療法と放射線療法のために生じたものと思
われる骨髄異形成症候群で亡くなり、ハクスレーは、その死の床で、話すことが出来なかったため
妻ローラに対して「LSD, 100 μg, i.m」(LSDを100マイクログラム筋肉注射して欲しい。)と書いて
渡し、1963年11月22日ケネディ大統領暗殺の日の朝、そのトリップの中で旅立ったそうだ。

どちらもその生き方にふさわしい死に様といわざるを得ない。

□ 坂口安吾選集 第一巻 文明評論集    坂口安吾    銀座出版   19471220初版 

奈良で出合った本のうちの一冊。

戦後2年目という時期にすでに選集がでていた安吾のすさまじい人気ぶりにあらためて感服。

時期が時期だけに紙や造本は粗末なものだけれど、書かれていることはこのドサクサでヤケクソ
な(たぶん)時代の熱気に溢れている。

リアルタイムだったらさぞやエキサイティングな本だったに違いない。