なんとなく、コルビュジエじゃなく、ライトだと感じている。
積み上げた石にコンクリートを流した構造体、キャンバス張りのフレームを、木造のトラス
に嵌め込んだ、まるでテントのような屋根、室内に溢れる半外的な太陽の光、タリアセン・
ウェストのコンセプトは、限りなく今的だし、有機的建築 (organic architecture) という
タームも、マーケティングと してはオン・タイムだろう。
シンプルな箱も悪くはないけれど、もうちょっと暖かいものがほしいなあといった気分か。
ライトの建築は、ふだんに見直され、ふだんに見棄てられる運命にある。それは、
生命としての人間の根っこをライトはあけっぴろげなまでのしつこさで、ひっつかまえて
いるからだ。 時代の流れに見合った新しい様式の登場で、しぶしぶライトは退場するが、
すぐまた顔を出してくる。新傾向が、たちまち息詰って、くたびれ、あきられてしまうから
である。ゲーテの『ファウスト』の言葉でいえば、「わたしたちが霊の言葉をささやくと、
あなたが来て、そのとおりのものを見せてくれる」のがライトの建築である。
帯にこんなことが書いてある本に出会った。
同じような想いをもっている人がいる。
ただその「有機的建築」ってやつがどうもわかりにくいのだ。
□ フランク・ロイド・ライトの呪術空間 草森紳一 フィルム・アート社 20090725初版
草森紳一は、「あの猿を見よ – 江戸佯狂伝」や「見立て狂い」という本を前に紹介したが、
そもそも「江戸のデザイン」や「穴」なんていうマイナーなテーマの本で注目された人だけ
あって、こういうちょっとへんなトピックに関しては嗅覚が鋭い。
ともかく蔵書4万冊という博覧強記の人である。
もともとは「書ける建築家」磯崎新さんにそそのかされてはじまったという、建築雑誌「SD」
での連載だそうだが、この人のアプローチは、対象に向かって真っ直ぐに切り込むといった
ものではなく、好奇心のおもむくままに、あっちへフラフラ、こっちにフラフラというような酔拳
スタイルだから、読み終えるのには難渋した。
本は、1974年にライト・ツアーで訪れた、オクラホマでの話から、そっと始まる。
そして間をおかず、岡倉天心と老子を引用し、「茶の本」を初めて読んだライトのことへと、
彼のイマジネーションが走る。
内部空間( inner space )こそ建物の実体( reality ) であるという考え方を自分の発見だと
思いこんでいた自信家ライトが衝撃を受けたという、天心の「茶の本」にある老子の言葉。
部屋のリアリティは、屋根や壁で閉じられたスペースにこそあって、屋根や壁それ自体に
あるわけではない。THE REALITY OF THE BUILDING DOES NOT CONSIST IN ROOF AND WALLS
BUT IN THE SPACE WITHIN TO BE LIVED IN .
タリアセン・ウエストの「趣味の悪いパウンドケーキのような気味合いの」壁に、ライトの自筆
で刻印されたその言葉とのシンクロニシティー。
彼は、こういうことを発掘しながら、ライトの言う「有機的建築」が、老子的あるいは道教的
(=呪術的)なものと密接にリンクしているのではないかという、仮説を導き出す。
草森紳一的「見立て」。
そんなライトの建築への批評的考察の合間に、カウフマン邸(落水荘)やスタンフォードの
ハナ邸など実作品の訪問記が貫入され、ソローやエマーソンや夢野久作などを、それぞれ
の空間の解釈に引用しながら、考察の間口を拡げる。もちろん「有機建築の魔法」というの
が底を流れるテーマだから、そのポイントを大きく外すことはないのだけれど、振幅の巾が、
こちらのキャパシティーよりはるかに大きくて、ともすれば酩酊状態に陥ってしまう。
2日ほどかけて、この本を読むうちに(それも行きつ戻りつ)何回かそんな状態になった。
いつものように寝転んで読んでいると、そのうち頭がクラクラになり、何を読んでいるのか
わからなくなって、気絶するように眠りに落ちてしまうのだ。
この本こそが、迷宮じゃないのかという気になってくる。
草森さんも述べているけれど、そもそも「organic」の訳語としての「有機」っていう言葉
自体がなんとなくしっくりこない。そしてそこに建築が加わるともっとわからない。
本棚にあるライトの作品の写真やドローイングを見ていても、そしてこの草森ライト論を
読めばなおさら、ああこれがそうなんだ、という焦点の合ったイメージにたどり着かない。
有機的建築とは、外からあてがわれた形態に合わせて造られるようなものではない。
その建築が必要とする全ての要素が調和し、内から外へと発展していく建築である。
ライト自らは、このように説明しているけれど、これって今盛んに言われている「自然と
共存する」なんていう単純な話ではなくて、人間が造った建築そのものを有機体と認識
しようという話、もっといえば、スタイルではなく、スピリットの話なんじゃないだろうか。
それは難解なからではない。やさしすぎる位だ。自然、単純、完一、そして自由と個性
がキーワードで、それが<有機>なるものによって総括される。・・それらを理解するのに、
困難はないが、問題なのは、このわかるということが、ほとんど無意味なのである。
ライトのキーワード、<自由>にしても<自然>にしても、ましてや<有機>は魔術書の
常套句であり、この言葉を理解したところで、たちどころに有機建築を地上に打ち立てる
わけにいかない。機械技術者、数学者、医師、錬金術師、詩人、音楽家、建築家が、
かつてしばしば呪術師でもあったのは、<自然>にかかわり合うのを業としたからである。
相伝できない秘伝、ということか。
理解できるがわからないことって、けっきょくは、魔法のようなものだ。
禅的公案 : 庭は、どこで終わり、家はどこからはじまるのか ( by F.L.Wright )
10匹の猫がひとつの家に飼われていれば、お互いに適度な距離感をもって暮らす。
たとえば、庭でその一匹一匹が昼寝をするときの、、その絶妙な配置感を、道教的には
「安排」というらしい。
「現在は移動する無窮である。相対性の合法な活動範囲である。相対性は安排を
求める。安排は術である。」
「安排」とは、つまり官能(有機)のデザインのことだ。
そして、さらに彼はアメリカで信号待ちをしている人たちの配置にもその玄妙を感じ、
おそらく、これは、彼らの個人主義の力のせいではないだろうか。ライトの信奉する
個人主義は、相対性に根ざしているので、無意識なまでの個々の位置どりが全体と
して見る時、絶妙な安排を作りだす。日本人がだらだらぐずぐずした不細工な安排で
群がるの は、おそらく依存心強く<自分>というものが欠けているからだろう。・・・
このことは日本の現代住宅にも、かたちとなってはねかえっている。だから、そこに
有機性はない。
と付け加える。
「有機」の円環が、こんなところで閉じた。
巻末で写真家の大倉舜二さんが、献じている「追悼文的・跋<ライト・ツアー>」という
文章が、切なくて、甘くて、とてもいい。
*
秋の本買記
意図したわけではないが、なぜか文学系の人の本が集まってきた。
なりゆきまかせでも、傾向がでてくるのが面白い。
季節の加減か、気分の加減か、あるいは、そのとき読んでる本の流れかもしれない。
□ もの思う葦 太宰治 大和書房 19640420 初版
均一棚で発掘した太宰の文庫サイズの函入りハードカバー、中身は濃い。
けれども、私は、信じている。この短編集、「晩年」は、年々歳々、いよいよ色濃く、
君の眼に、きみの胸に浸透して行くにちがいないということを。私はこの本一冊を
創るためにのみ生まれた。きょうよりのちの私は全くの死骸である。
太宰にしか書けないアフォリズム
広告のコピーなら秀逸、マジならちょっと痛いが、間違いなく前者だろう。
解説を書いている亀井勝一郎は、この「感想集」をこのように評している。
どの一篇をとってみても、筆致は瀟洒であり、小説と同じような「軽み」がある。
この独自の文体は、太宰文学全体に通ずる大きな魅力といっていいだろう。
これは天分という以外にない。
太宰のこんな散文集は、見たことがない。
□ グスコーブドリの伝記 復刻版 宮沢賢治 ほるぷ出版 1974120 初版
グスコーブドリってなんなんだ、いったいどこで切ればいいんだ。
ペンネンネンネンネン・ネネムとグスコーブドリはどんな関係なんだ。
そしてこのムパタみたいにプリミティブな挿絵はなんなんだ。
宮沢賢治さすがのインパクト。
グスコー・ブドリは、賢治のユートピア「イーハトーヴォ」の森で生まれた、木樵の仔。
父はグスコー・ナドリ、妹はネリ、母はただ「お母さん」だ。
巻頭に、「雨ニモマケズ」、そして8篇の童話。
・北守将軍と三人兄弟の医者
・祭の晩
・ざしき童子の話
・よだかの星
・注文の多い料理店
・鳥の北斗七星
・雁の童子
・グスコーブドリの伝記
装丁・挿絵 横井弘三
「グスコーブドリの伝記」にあらわれた彼のユートピア理念のひとつは、自然は人工的に
作れること、さらにいえば自然よりも優れた自然が人工的に造成されうるということだった。
(吉本隆明「ハイ・イメージ論Ⅰ」)
これって、ライトの「有機」とかなり近い概念じゃないんだろうか。
□ 孔雀の舌 開高健 文藝春秋 19910405 第10刷
小説ももちろんだが、この人のエッセイの味わいはまた格別。
「全ノンフィクション」と題された叢書、この第四巻は、「酒と食」がそのテーマだ。
舌の上の一瞬はモラルや信仰や信念やイデオロギーのはるか彼岸にある、非情なまでの
自由にみたされた一瞥の領域だが、一瞥しかできないのにたちまち全身を占められ、しかも
つぎの瞬間には容赦なく去られ、捨てられてしまうのだから、文学は食物と女だと喝破した
定言は古いものだけれど、やはり痛烈である。このうつろいやすい一瞬をこれまたうつろい
やすい文字とらえようとする技の至難。
語彙の豊穣、緻密に練り上げられた文体。
この人の文章を読むたびに、日本語という言語の豊かさを、あらためて気づかされる。
どういう修練をすれば、こんな文章が書けるようになるのだろうか。
作家の凄さ。
□ ああでもなくこうでもなく 5 橋本治 マドラ出版 20061226 第1刷
今は亡き雑誌「広告批評」連載の橋本クロニクル。
この巻頭時評コラムは、1997年1月号から、「広告批評」が休刊する2009年4月号まで
10年以上にわたって続けられ、計6冊の単行本になった。
「このストレスな社会!」という副題をもったこの5冊目は、2004年春から2006年秋までの
2年半、ライブドアや郵政民営化や耐震偽装の時代をまとめたものだ。
この本を書いた「集中している当人」は、「これは誰にでも分かる当たり前のことだ」と
信じきっていますが、そう思っているのは当人だけで、この本は決して「分かりやすい本」
なんかじゃありません。月に一度の「火事場のバカ力」が可能にした、とてもヘヴィな本です。
相変わらずの橋本節、ひたすら「自分の頭で考えたこと」を、彼だけの理路で語る。
言葉は少しも難しくはないし、読んでいる時はすごく腑に落ちるのに、読み終わってみると
なんとなくスッと、その理解が霧散する。 けっきょくは、「自分のことは自分の頭で考えるしか
ないんだよ」としか言っていないような気がしてしようがない。
そして、そのようにして、この人の本を読み続けることになってしまうのだ。
□ MAGGY CASSIDY a love story Jack Kerouac AVON 1959
□ SOUL on Ice Eldridge Cleaver RAMPARTS BOOKS 1978
□ Nineteen Eighty-four George Orwell PENGUIN BOOK 19710129
最近ちょっとクセになっている均一棚からのペーパーバック3冊。
ケルアックの本は、副題のとおり初恋の物語らしい。
Cassidyというその恋人の名前が、「路上」の主人公のモデルといわれている Neil Cassady と
ひょっとしたら関係があるのかもしれないと思ったり。
“Soul on Ice” は、「氷の上の魂」というタイトルで本棚にある。
ブラック・パンサーの情報相が書いた、犯罪と革命にかかわるエッセイ。
「書ける」黒人活動家の 60’s の話。
“Nineteen Eighty-four 1984 ” は、1949年に発表されたSF未来小説。
核戦争後の世界、「Big Brother」は率いる「党(Party)」のスローガンは、
WAR IS PEACE (戦争は平和である)
FREEDOM IS SLAVERY(自由は屈従である )
IGNORANCE IS STRENGTH (無知は力である)
これが、どうのように村上春樹「 1Q84 」とリンクしているのかは、あまりよくわかりません。
□ 母の庭を探して アリス・ウォーカー 東京書籍 19920707第1刷
□ スタジアムは君を忘れない マイク・ルピカ 東京書籍 19920604第1刷
□ 人生はワールドシリーズ トマス・ボスウェル 東京書籍 19941104第1刷
東京書籍のアメリカン・コラムニスト全集3冊追加、残りはあと6冊。
ここから先が、ちょっと難しそうだ。
□ 日本の庭 立原正秋 新潮社 19770425 初版
□ モダン・ジャズの発展 植草甚一 スイング・ジャーナル社 19770325第15版
「日本の庭」は、既読「買い直し」
日本美に造詣の深い作家による庭紀行は、常に本棚においておきたい一冊。
庭の本はたくさんあるが、文章の美しいものはそれほど多くない。
植草ジャズ本は、ハードカバーを持っているが、このソフトカバー版ははじめて見た。
体裁からみるとおそらくこちらがオリジナル。
それにしても、この本が15版とは。
*
SPOT LIGHT 企画、「 his master’s choice – BOOKS+コトバノイエ 晶文社の30冊 」公開中。