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2009.03.09

books are not just for reading

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すごく久しぶりに、K伊國屋書店に行く機会があった。

 

図書カードなるものをいただいたので、それを使ってやろうと目論んで、1時間ほどあれこれ
広大な店内をさまよいながら物色したけれど、何を買ったらいいのかわからない、というか
買う本が一冊もない。

 

ぼやっと、新刊で買うならこれと考えていた本は置いていないし、 ちょっと面白そうな本には
まるで買う気のおこらないプライスタグがついていたり、いろんなネガティブな理由はあるんだ
けれど、なんとなくこの店で買う気がしなかった、というのが正直なところ。

 

こんな風な本買いのむつかしさに直面したのは初めてのことで、ちょっと戸惑ってしまった。
本屋に行って何も買わずに出てくるなんて、ちょっと考えられない。

 

欲しい本はいっぱいあるはずなのに、大阪でも屈指の大型店に買うものがないっていうのは
いったいどういうことなんだろう。

 

きっと本にたいする情報量や販売のためのソフトが決定的に不足しているのだ。
というか、いつのまにかああいう本の売り方に満足できなくなってしまったんだろうと思う。

 

たとえばamazon は膨大なストック(モニター上での)を背景に、マーケットプレイスという、
既存の本屋だけじゃなく、個人をも巻き込んだ古本のアウトソース(その結果とんでもない
ダンピングがおこっていたり、いんちきなレアものがヒートアップしていたりするわけですが)
や、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」といったリコメンデーションの機能、
そして読んだ人の投稿レヴュー(ここのシロウトレヴュワーたちは、したり顔の作品解説や、
好き嫌いのことばかりで、Y部さんがいうように、「ぜんぜんあてにならない」んだけれど、
迷っているときには、あの「★」が背中を一押ししてくれたりすることがあったりするわけで)、
といった一冊の本にまつわる様々な情報のシステムが張り巡らされていて、本屋で見て
amazonで買うなんていうスタイルさえ存在するし、 セレクト型のブックショップ、たとえば
三月書房なら、そこにはどんな本がそろっているかということが だいたいわかっていて、
そこへ行くために行くわけだから、最初から買うものがほとんど決まってるといってもいい。

 

そんな買いかたに慣れてしまったら、こういう大型店のただ百花繚乱的な展開がつまらなく
なるのは、あたりまえのことなのかもしれない。

 

そう考えると、総合大型書店というのは、じつはほとんど存在の基盤を失っていて、それは
流通業で百貨店が行き詰まっているのと、とても良く似ている。

 

百貨店は基本的には不動産業だから、in-shop という専門業態を導入することで少しだけ
生き長らえることができたけれど(でも結局それは自らの存在理由を見失うことになった)、
大型書店にはそんな苦し紛れの救命策さえないように思えてしまう。

恐竜は滅びるんだ、きっと。
大きな身体にはたくさんの食べ物が必要で、食べ物がいつもそこにあるとは限らないから。

 

amazon にそういう印象がないのは、あまりにも巨大すぎるからか、 あるいは個体ではなく
ひとつの「系」として、増殖し続けているからかもしれないと、ふと思う。

 

amazon にスポイルされちゃったかな、ひょっとして。

 

で、そんな amazon からやってきたある一冊の中の、ちょっと気になるコラム。

 

「読者の権利 10ヶ条」というものだ。

 

■ 奔放な読書     ダニエル・ペナック  藤原書店  19930425 初版第2刷

 

それはこんな風だ。

01. 読まない
02. 飛ばし読みする
03. 最後まで読まない
04. 読み返す
05. 手当たり次第に何でも読む
06. ボヴァリズム(小説に書いてあることに染まりやすい病気)
07. どこでも読んでもいい
08. あちこち拾い読みする
09. 声を出して読む
10. 黙っている(読んだことを)

 

「本嫌いのための新読書術」という不粋なサブタイトルはともかく、このリストは、いかにも
フランス人らしいユーモアと示唆にみちたもので、本を読むということの様相をうまく表している。
なかでも「読まない」ことを読者の権利としてまず最初にあげたのは、この人の機知だろう。

 

彼が伝えたいのは、本に、自由を奪われる必要はないということだ。
この10のメッセージは、読書術なんていうもんじゃなく、本という物体にたいしての attitude
と考えたほうがいいだろう。

 

本というものをただの情報源と考えてしまうと、読むことと読まないことの間に情報的な優劣が
ついてしまう。 でも本を読んで得ることと、そのことで失うこと、本の before-after は(それは
本に限ったことじゃないのかもしれないけれど)、じつは常にゼロバランスで、読んでしまった
ことでその内容にスポイルされてしまったり、費やした時間がもったいないと感じる本はいくら
でもあるし、そもそもただ読んだだけで、その本をちゃんと理解しているかどうかなんて誰にも
わからない。

 

橋本治が、読んだことのない本のことを、読んだ人以上に知っていたというのは有名な話だし。
また長嶋茂雄がある作家に言った「読まなくてもわかります、いいに決まってます」というコトバ。

 

そう考えれば、「読むこと」と「読まない」ことに、それほど差異はない。

 

本の存在を感じること。

 

本がそこに在ればいいんだ。

 

本は眺めることもできるし、触ることもできる、その佇まいだけで感動することだってある。
そしてなによりも、「読書と引き換えに何も求めない」ってことが大切なんだと思う。
何も求めなければ、得られるものはたくさんある。

 

「最近、大御所といわれるアーティストの家をたずねた。玄関に入って一番最初に目に入った
のは、大型のハードカバーでいっぱいになった本棚だ。その家を去る時、彼から天井の高くに
吊るされた照明の電球を替えてほしい、と頼まれた。 ところが、ソケットには手が届かない。
彼は書棚までいくと、ぶ厚い 4、5冊の本を手に戻ってきた。そしてそれはちょうど電球に手が
届く高さだった。(Books are not just for reading by Abake)」

 

読者の権利をもうひとつ提案したい。

 

11 踏み台として使う

 

*

 

■ 大阪センチメンタルジャーニー    富岡多惠子   集英社   19970810 第1刷

 

大阪センチメンタルジャーニー、富岡多恵子という字面を見ていたら、上田正樹と有山淳二の、
大阪へ出てきてから」という曲が浮かんできた。
ちょっとセンチメンタルなブルースだけど、なんかぴったりな気がしたのだ。

 

じっさいには大阪に「出てきて」ではなく、大阪を「出てから」31年目に帰った大阪の話。

 

捨てた故郷を思うとき、誰しもちょっとはセンチメンタルな気分になるはずだけど、多惠子さんは
クールである。 懐かしさに溺れることなく生まれ育った大阪のあれこれやあちこちを、淡々と、
ふつうに書き綴る。

 

大阪城、アメリカ村、うどん、てっちり、漫才、河内音頭、近松、そして師、小野十三郎。

ういうものを本として残してもらえたのは、富岡ファンとしては文句なしにありがたい。

 

1990/11/01~1991/10/31 産経新聞連載

 

■ まぼろしの大阪    坪内祐三    ぴあ   20041010 初版

 

大阪がもう一度続く。

 

こちらは、東京の都会人の大阪あれこれ、坪内祐三だから本のことが紀行にからむ。

 

あとがきで、「そのうち、東京よりも大阪のことが好きになってしまうかも知れない」なんて
書いているけれど、それは社交辞令、もしくは嘘だろう。

 

大阪人が坪内祐三を受け入れるわけがないし、坪内祐三が大阪に馴染めるわけがない。
彼が好きになってしまいそうな大阪は、たぶんとてもブキッシュな大阪だ。

 

颯爽といかないのは、この人の持ち味なのか。

 

2002/07/15~2004/08/09 ぴあ関西版連載

 

■ 家守綺譚    梨木香歩   新潮社    20040130 初版

 

なんとも不思議な物語、まさに「綺譚」としかいいようがない。
小説家志望の男が住まい始めた、とある一軒家におこるシュールな出来事、明治の頃の話だ。

 

全二十八章がすべて植物の名前になっている。

 

「それはついこの間、ほんの百年前の物語。サルスベリの木に惚れられたり、飼い犬は河童と
懇意になったり、庭のはずれにマリア様がお出ましになったり、散りぎわの桜が暇乞いに来たり。
文明の進歩とやらに今ひとつ棹さしかねている新米知識人の「私」と天地自然の「気」たちとの、
のびやかな交歓の記録――。」

 

家という異界、その中での得体の知れないものとの交歓という設定は、それだけでも充分に
魅力的だけれど、ただ幻想的なだけじゃなく、筆致や文体になんとなくとぼけた味があり、
色川武大の「怪しい来客簿」や杉浦日向子の「百物語」と同じような、微妙なユーモア感が、
本全体に漂っていて、「百年の孤独」が愛読書と聞けばなるほど。

 

本人曰く「料理人が作る自分用の賄いのようなもの」だそうだ。

 

まったく初めての人だけれど、とても年下とは思えない。

 

■ 藤森照信、素材の旅    藤森照信   新建築社   20090130 初版第1刷

 

藤森先生の最新刊、白いジャケットに穿たれた大小21の穴から、いろいろな素材が見える。

 

土石と草木、「科学技術を自然で包む」建築家だけに、自然素材のことは気になるところだろう。

 

聚楽土/大理石/スレート/土佐漆喰/鉄平石/青森ヒバ/ナラ/茅/竹/漆/檜皮/貝灰/
クリ/出雲流柿板/大谷石/千年釘/柿渋/焼杉/島瓦/台湾ヒノキ

 

16年、46回の「建築用自然素材を訪ねる旅(戸田建設という建設会社の広報誌『TC』で、
1992年から年3回のペースで、今も連載中らしい)」から選ばれた建築の20の素材。

 

どの素材もすごく魅力的だ。

 

エコなんていう言葉さえほとんどなかった時代から、自然素材、それもひときわ「純」な素材を
プリミティブなカタチで使いつづけてきた藤森先生の面目躍如たる一冊だろう。

 

「楽しい旅だった」、というのがあとがきの第一声である。

 

*

 

SPOTLIGHT 企画  「 bru na boinne のデザイナー辻マサヒロさんが選んだコトバノイエの30冊

気鋭のデザイナー渾身のセレクション、残日わずかです、ぜひご一覧を。

 

http://kotobanoie.com