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2008.09.13

if something happens twice

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blog と称しながら、日誌でも日記でもないものを書き綴っている。

RSS( あるいは Atom )というたいへん便利なシステムで購読(ちょっとへんな言葉だなあ)している
いくつかのブログを眺めていると、いわゆる日々の徒然を日記風にというのが主流で、みなさんたい
へんマメに更新していらっしゃる。

日記風を読むことは、なんか覗き見の気配もあって、それなりに楽しいんだけれど、読ませる工夫の
ない垂れ流しのモノローグや自己陶酔に、辟易とすることもたまにあって(まあTVと同じで文句がある
なら見なきゃいいんだろうけれど)そういうことがあると、そんなことべつに公開しなくてもいいん

じゃないのっていう気分になってしまうのだ。

逆にいうと、「垂れ流しのモノローグ」にならない日記風のブログを続けられる自信がないわけで。
それもほぼ everyday なんて驚異的としかいいようがない。

なんか不思議なメディアだなあと思う。

「書きたい」人がこんなにいたことも驚きだし、このたくさんの「書きたい」人たちは、このブログという
メディアができるまでどうしてたんだろう、そして「書きたい」人たちはこのまま書き続けるんだろうか、
などと思いつつ。

*
柳の下の2匹目の泥鰌かもしれない。

「だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ」に続き、題名の長い本を手に入れた。

こういうシンクロニシティーには、3回目まではつきあうべきだ、というのが経験則。
べつに合理的な根拠があるわけじゃないけれど、2度あることが3度あるのは統計学的な真実だ。

■ 洲之内徹が盗んでも自分のものにしたかった絵    洲之内徹   求龍堂  20080610 初版
小林秀雄から「いま一番の批評家は洲之内徹だね」と激賞され、青山二郎から「『芸術新潮』では、
洲之内しか読まない」とまで言われたエッセイ「気まぐれ美術館」。

洲之内徹は銀座「現代画廊」のオーナーで美術評論家、1987年に亡くなったあと、彼のアパートメント
に残された146点の絵画が「洲之内コレクション」として宮城県美術館に収蔵されている。

この本は、そのコレクションのカラー図版と、その絵にまつわる洲之内さんの文章からなる画文集だ。
 
「一処不在の私の、絵が故郷なのだ。」と語る無頼の人にとっては不本意な結末かもしれないけれど、
「盗んでも自分のものにしたかった」ほどに惚れ込み、「ともかく好きな画家、好きな絵だけを選び、
とくに人口に膾炙していない画家の発掘には、どんなところに出向いても交渉し、執拗な入手を果た
している(by 松岡正剛)」といわれたコレクションを目の当たりにできることは僥倖というべきだし、
その146点の絵画たちが、「気まぐれ美術館」や「帰りたい風景」の滋味深い文章とともにカラーで
掲載されたこの本は、muse からのプレゼントのようなものじゃないかと思う。

洲之内さんのキュレイションは one and only 、それは「目利き」というより「偏愛」を感じさせる。

個々に見ていくと、思い入れが強すぎてそれほどピンとこない作品もあるけれど、いわゆる批評から
一歩も二歩も深みのある文章が重ねられたとたんその絵は輝きだし、いわば画文一体とでもいうべ
き境地にはいったその作品は、画家の手を離れ、洲之内藝術と化す。

「利行(長谷川利行)のタッチはひょろひょろしているようでひょろひょろでなく、へなへなのようで
へなへなでなく、形はでたらめのようででたらめでなく、利行独得の澄んだリズムを持ち、妖しく美しい
フォルムになっている。ところが偽作の利行は、利行らしく見せようとして、ひょろひょろを真似する
からほんとにひょろひょろになってしまい、でたらめを真似してでたらめになってしまう。そして、その
ひょろひょろとでたらめを利行だとおもっている人が、いつもその偽作に騙されるということになる。」
(気まぐれ美術館)

この前のエントリーで書評のことを書いたときにも感じたことだけれど、批評のリアリティは作品への
「尊敬(=愛)」からしか生まれてこないんじゃないかと思う。

小林秀雄がこんな風に言っている。

「いい批評はみな尊敬の念から生れている。これは批評の歴史が証明している。人を軽蔑する批評
はやさしい し、評家はそれで決して偉くならぬ。発達もない、創造もないのです。フランスにも
admirer, c’est egaler(敬服するとは匹敵することだ)という諺がある。」

そしてさらに

「真っ白な原稿用紙を拡げて、何を書くか分らないで、詩でも書くような批評も書けぬものか。例えば、
バッハがポンと一つ音を打つでしょう。その音の共鳴性を辿って、そこにフーガという形が出来上る。
あんな風な批評文も書けないものかねえ。即興というものは一番やさしいが、又一番難かしい。文章
が死んでいるのは既に解っていることを紙に写すからだ。解らないことが紙の上で解って来るような
文章が書ければ、文章は生きて来るんじゃないだろうか。批評家は、文章は、思想なり意見なりを伝
える手段に過ぎないという甘い考え方から容易に逃れられないのだ。批評だって芸術なのだ。そこに
美がなくてはならぬ。そろばんを弾くように書いた批評文なぞ、もう沢山だ。退屈で退屈でやり切れぬ。」
(「座談/コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」)

とたたみかける。

小説、つまりフィクションが少ないのがこのbooks+コトバノイエの本棚の大きな特徴で、そうなると
いきおい画集や写真集といったアート本やエッセイや評論といったノンフィクションが多くなるわけだ
けれど、ほんとうの意味で、それ自体が美に昇華しているように感じる文章はそれほど多くはない。

だからこそときたま出会う、この洲之内徹や小林秀雄や吉本隆明や白洲正子や植草甚一や澁澤龍彦
や色川武大や寺山修司(敬称略)の珠玉のような文章を心にしっかりと留め置きたいと思うんだ。

それにしても、いちどは「そこに美がなくてはならぬ」なんて言い切ってみたいもんだ。
 
*
 
■ 仮往生伝試文    古井由吉   河出書房新社   19981124  再版

この人のエッセイを読むためだけにJRAの「優駿」を買っていた時期がある。

短編のような長編のような、随筆のような小説のような、そして現世のような来世のような、なにしろ
第一話にして平安時代の僧侶の往生伝とメジロラモーヌが同じ地平で語られるんだから、この本の
世界は、小説という形式でしかあり得ない壮大で、しかもメタフィクショナルな宇宙だ。

試文と称してはいるが、作者はイメージ上の混沌や、生と死の往還の中から何か新しいものが生ま
れることを確信しているに違いない。

読まなくてはわからない、が、読まなくてもわかることもある。

この本は、濃いぞ。
 


■ Yanagi Design   柳工業デザイン研究会編  平凡社  20080825 初版第1刷

柳宗理デザイン研究室のすべて。

良くも悪くも財団法人という組織形態でデザインのオフィスをやっているところにすべてが表れ
ているような気がします。

アノニマス(無名性)を標榜する柳さんのプロダクトデザインはとっても素晴らしいものだけれど、
独特の臭みがあるのも否めない。

それは民藝の残り香だったり、オレンジハウス的なプラグマティズムだったり。

本文で引用した小林秀雄の伝でいえば、やはりそこには美がなくてはならないんだ。
「美」に対するモノサシはひとりひとり違っていてあたりまえだから、デザイナーが「美」と感じる
ところに波長が合わなければ、「退屈で退屈でやり切れぬ。」ということになってしまうわけで。

ギリギリです。


■  悲劇の解読   吉本隆明    筑摩書房   19791210 初版第1刷

のっけからこうだ。

「批評の最大の悩み、公言するのが恥ずかしいためひそかに握りしめられている悩みは、作品となる
べきことを禁じられていることだ。そこで批評はいつも身の振り方についておもいめぐらしている。」

まな板にのせられたのは、太宰治・小林秀雄・横光利一・芥川龍之介・宮沢賢治。

最近マイブームの小林秀雄論が出ていたので興味があって読み始めたけれど、歯が立たない。

この時代の隆明さんは手ごわいなあ。


■ 三島由紀夫おぼえがき   澁澤龍彦   立風書房   19781204 初版

なんとなくふらふらっと買ってしまった澁澤龍彦さんの三島由紀夫論。
昭和36年から昭和58年までに執筆された三島由紀夫に関する文章の集成だ。

三島由起夫に関しての本は数えきれないほど出版されているけれど、澁澤さんと三島由紀夫の交友
は、なんとなく他の人とは違うような気がしないでもない(直感ですが)。

この本に載せられた二人の対談を読んでいると、三島由紀夫が3歳年下のこのディレッタントに一目
を置いていたことがよくわかるから、きっと美意識で重なる部分を感じていたんだろう。

いつもながら、この人の本は装丁、とくに紙と活字のコーディネーションが絶妙だ。


■ イームズハウス/チャールズ&レイ・イームズ    岸和郎   東京書籍  20080804第1刷

ミッドセンチュリー・デザインのアイコンとして、インテリアの分野ではスターといってもいい存在の
イームズ夫妻ですが、その建築が語られることはそれほど多くはなかったんじゃないでしょうか。

ケース・スタディハウスNo.8 ― イームズ自邸。

ダイハード・モダニスト、岸和郎さんが朝9時から夜8時までこの住宅で過ごすことによって得たこの
住宅の考察が、多数の新しい写真(by Phillippe Ruault)とともに掲載されています。

イームズハウスの「正面性」ー A-B-B グリッドの謎
斜めの視線 ー アルコーブから
外縁=エンベロープとしてのエレベーション

性格が垣間見えるような真面目な分析に好感。

「カリフォルニアの建築を解説する岸和郎」というのがなんとなくイイ感じなわけです。