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2008.01.11

younger than that now

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金杯に負けて新しい年が始まる。

天神橋筋に本買の足を伸ばせば「えべっさん」にめぐりあい、これもまた正月気分。

 

今年は生誕100年ということなんで、J.J.氏の本を久しぶりに買ってみた。


雨降りだからミステリーでも勉強しよう   植草甚一   晶文社   19731020 7刷

なんとも心地よいタイトル。

「ワンダー植草・甚一ランド(初版1971/12/25)」以降の植草甚一というのは、ユニット名―植草本人、
津野海太郎、平野甲賀を中心にときどき片岡義男などが入ってくる―と捉えた方がいいのではないかと
いう説があるが、なるほどそういうことだってあったのかもしれないという気がしてくるくらいこの人に
まつわるムーブメントには、今から考えると不思議な白熱があった。

大きくいえば、サブカルチャーの「発見」ということじゃなかったかと思う。

60年代に、既成の価値観(エスタブリッシュメント)に対して NO ! と宣言することから始まる、カウンター
カルチャーを標榜した団塊世代(当時20代だった)が、挫折のなかで引き寄せられたのが、傍流の存在感
を積極的に肯定する「サブ」というコンセプトで、世間体といったようなものに代表される既成価値の象徴
である親とまったくソリが合わない彼らが「発見」したのが、 自分たちの親のひとまわり上の世代のちょっと
変ったじいさんたちだった。

主流から離れてもなお輝く独自の価値観(ライフスタイル)を持ち続けた大人たち。

もちろん植草甚一はその代表格だけれど、一千一秒物語・A感覚の稲垣足穂、放浪の詩人金子光晴と
いった明治生まれの不良じいさんたちや、田中小実昌、殿山泰司、久保田二郎、山田風太郎、色川武大、
小林信彦といった戦中派のへそまがりたちも、そのサブカルチャー(ポップ感覚といってもいいかもしれない)
の流れの中で、異彩を放っていた。

その白熱は、サブカルチャーというものが、すでにひとつの価値観として認知されてしまっている(というか
主流という概念が霧散してしまったような)今の時代では考えられないことだけれど、「そんなの関係ねえ」
というライフスタイルの萌芽がここにあることは間違いない。

そしてその流れが、やがて「POPEYE(1976創刊)」につながり、バブルへと突入していくことになる。

植草甚一は、若い人や中年男性には今でも人気はあるけれど、中高年の女性に無関心な人が多いって
いうことが、何かを暗示しているんじゃないかと思う。

「ちょっと変わったサブカルじいさん」なんて、もう見かけなくなってから久しい。

*

■ 書を捨てよ、町へ出よう     寺山修司    芳賀書店   19680110 10版

均一台で、60年代の寺山修司のオリジナル版にめぐり合うなんてそうそうあることじゃない。
まして、横尾忠則が全面的にアート・ディレクションを施した稀少書として知る人ぞ知る一冊ならなおさら。

「手は生産的だが、足は消費的である。」
「ブリジット・バルドーの足は、それ自体でひとつの文化である。」

まえがきをちらっと眺めただけでも、寺山修司の得意技、アフォリズムが炸裂している。

残念ながらカバーはないけれど、充分満足しています。

■ 美味礼賛     ブリア・サヴァラン/関根秀雄訳    創元社    19531005 初版

「君はどんなものを食べているか言ってみたまえ、君がどんな人であるかを言いあてて見せよう」

食べ物の本を時たま買いたくなることがあるけれど、古典として名高いこの本の昭和28年初版の良本
が見つかるとは思ってもみなかった。

創元社の本だし、図柄からしてひょっとして青山二郎の装丁なんじゃないかと思う。
そうならばなおウレシイ。

■ 悠々として急げ     牧洋子編    筑摩書房    19911025 初版

未亡人牧洋子が編んだ開高健の追悼本。

司馬遼太郎の弔辞にはじまって、その3年後に娘道子を自死で亡くすことになる未亡人(故人)の追悼記
で終わる文集だけれど、故人を語る文章が饒舌であればあるほど、開高健のあの緻密に練り上げられた
文体が、one and only であることを、強く感じさせてしまう。

そういえばこの人もアフォリズムの名手でした。

最近買ったこの3冊のことを考えていると、ひょっとしたらアフォリズム好きなんじゃないかと思えてきた。

*

今年の目標は、「量より質」。

そして「 NEW YORK でセドラーしようツアー」を敢行したいということです。

今年もどうぞよろしく。