いいネーミングするなあ、cloud computing.
見上げると、いつもそこにある、か。
アップルの新しいサービス「MobileMe」のシンボルマークが雲のカタチをしているのは、このターム
を意識しているからだろう。 そして、Jobs がそれをプレゼンテーションしたということは、これから
のコンピュータ・ネットワークの世界(post web2.0 ) が、きっとこのコトバを中心に回っていくという
ことを示しているに違いない。
このcloud computing が現実のものになって、いろいろなアプリケーションが、ローカルマシンでは
なく、サーバーに常在しているとしたら、端末のカタチは劇的に変わってしまうんじないかと思う。
こんどの iPhone は、きっとその橋頭堡として発表されるんだろうな。
でも、写メ許せない、イアフォンで音楽を聴かない、ケータイメールほとんどしない、3.5インチでも
眼鏡かけないと見えない、こんなケータイ四重苦の人間にとって iPhone はほとんど無用の長物で、
プロダクト(gadget)としての魅力は充分あるけれど、使うこなすことは、たぶんできない。
ただホントに面白いことは、こういった最新の中にではなく、もうちょっと曖昧なところにあるんじゃ
ないかというのが正直な気分だ。
そんなことをあらためて考えさせてくれる新古本に出会った。
■ 白 原研哉 中央公論新社 2008/05/30 初版
著者自らによる装丁が美しい。
タイトルどおり、比べてみると今まで白いと思っていたものがそうじゃなく見えるくらい「白」い。
タイポグラフィやレイアウトにも知的な抑制がよくきいていて、この人の本領はひょっとしてここ
にあるのかもしれないと思ったりする。
彼がこの新刊で探求している「白」は、コンセプチュアルな存在としての「白」だ。
「白」というコトバが、日本の文化や美意識の中でかかえている、ヴォイド(空白)や純粋性といった
概念や、不可侵性/不可逆性といった文化的なイメージに焦点をあてて論じている。
生真面目な人柄そのままに、アイコンとしての「白」が、きちんとした物腰で語られていて、それは
それでプロフェッショナルな考察として好感のもてるものではあるけれど、さまざまな「白」の概念
が明らかにされるにつれて、気配や雰囲気といった、はっきりと見えない領域が気になってくる。
消失点としてのピュアな白ではなく、その手前にある陰影。
グラデーション(gradation)。
0と1あるいは白と黒、ものごとの「間(あわい)」に存在する様々な階調のことである。
世の中を蔽う、悪と正義、人工と自然、といった二元論のありかたがどうも腑に落ちないのだ。
面白いか面白くないかといった自分の中のにあるものの価値判断なら二元論で割り切れるのかも
しれないけれど、現象や状態や相対的な領域を無理やりどちらかに割り切ってしまうことに、恐れ
のようなものを感じることはないんだろうかと思う。
川上未映子はこんな風にいっている。
「私はひとつの考えに対して、違う角度から光を当てることが大切だと思っています。今はディ
ベートの技術が重視されていますが、相手を言い負かす話し方はあまり好きじゃない。それより
ひと つの意見を抱いたら、真逆のことを考えてみたい。 その肯定と否定との間を行き来する
運動の中に、正しさはあると思うんです。」
間違っているものの中にも正しいことはあり、正しいことの中にも間違っていることがあることを
認識しつつ、正しいと思うことにYESを唱え、間違いと思うことにNOと訴えること、そして時には
正しいと思うことにちょっとNOといってみたり、間違いだと感じつつ賛成してみたり。
これってグラデーションじゃないのか?
この前読んだ保坂和志の「カンバセーション・ピース」という小説で引用されていた
「神の子が死んだということはありえないがゆえに疑いがない事実であり、葬られた後に復活した
ということは、信じられないがゆえに確実である」
という異端の神学者テルトゥリアヌスのこのコトバ、そして「不合理ゆえに信ずる」という彼の思想も
ひょっとして、虚と実の間(あわい)のグラデーションかもしれない。
藤本壮介はちょっとカッコよく、
「壁を立てることは、空間を0か1かに分けてしまう。 でも本当は、空間には0と1の間のグラデー
ションの豊かさがあるはずだ」
なんていっているけれど、そのあるはずのグラデーションの豊かさをどう表現するかだろう。
そしてやはり、谷崎の「陰翳礼賛」に行きついてしまう。
日本古来の空間を彩る光と陰のグラデーションを、たとえばこんな風に表現している。
「私は、数寄を凝らした日本座敷の床の間を見るごとに、いかに日本人が陰翳の秘密を理解し、
光と陰との使い分けに巧妙であるかに感嘆する。なぜなら、そこにはこれという特別なしつらえが
あるのではない。要するにただ清楚な木材と清楚な壁とをもって一つのへこんだ空間を仕切り、
そこへ引き入れられた光線がへこみのここかしこへ朦朧たる隈を生むようにする。にもかかわら
ず、我らは落とし懸けの後ろや、花生けの周囲や、違い棚の下などを埋めているやみを眺めて、
それがなんでもない陰であることを知りながらも、そこの空気だけがシーンと沈み切っているよう
な、永劫不変の閑寂がその暗がりを領しているような感銘を受ける」
that’s it.
この微妙なニュアンス。
こんな風に考えていくと、この世界のすべてのものが、さまざま多様なグラデーションの連続体
のように思えてきてしまうんだ。
「赤」だと思っていたのに、気が付いたら「青」や「黄色」になっている。いつの間に色が変わったの
か、その境界線が判らない、そんなグラデーションに憧れる。
*
この「白」を含めて、どういうわけか発行されたばかりの本が集まってきた。
まあいわゆる「流れ」というものだろうから、本買人としては唯々それに身をまかすしかない。
もちろんでたばかりの新古本なので、古本としてはやや高めの価格設定ではあるけれど、クオリティ
はほとんど新品と変わらないから、本としての魅力さえあれば、価値はある。
どういう流通でこういう本たちが店頭に並ぶのかはわからないが、「再販」なんていう制度がなけれ
ば、普通の本屋さんでもこういう展開が可能かもしれないと思うと、ちょっと不思議な気分だ。
■ 旅の仲間 澁澤龍彦|堀内誠一往復書簡 巌谷國士編 晶文社 2008/06/05 初版
まずはこの本の刊行、それも晶文社からの発行を寿ぐ。
澁澤龍彦はいわずと知れた碩学の文筆家、そして日本の雑誌文化を変えたといわれるAD堀内誠一。
1987年に同じように下咽頭癌に冒され亡くなった二人の遺作ともいえる往復書簡を、巌谷國士さんが
愛情をこめて丁寧に編集し、詳細な注釈をつけてくれている。
2007年の中京大学アートギャラリーでの展覧会開催を経て、本書の刊行につながったのはこの人の
力が大きかったんじゃないかと想像する。
そしてこの本の体裁とそのデザインは、二人の天才を惜しむにふさわしい出来映えです。
permanent collection.
■ 磯崎新の「都庁」 平松剛 文藝春秋 20080610 初版
東京都庁をめぐる師弟のバトルというごく単純なミーハー的好奇心で買った本だから、あっという間に
読み終えてしまったけれど、コンペの内幕暴露としてはちょっと食い足りない感じ。
結局は鈴木=丹下の出来レースに、アート志向の建築家である磯崎さんがどう立ち向かって、どう
敗れていったかという話なんだけれど、それはバトルというよりも、「断絶」とでも呼ぶべきすれ違いで、
この都庁コンペをめぐる、丹下健三といういかにも東大的な権力よりの建築家と、その不肖の弟子と
自称するアトリエ系作家磯崎新との「断絶」は、そのまま父と子の世代論としても通用しそうです。
若き日の青木淳さんが、脇役として登場しています。
ノンフィクション・ノベルとしては文体のツメがやや甘く、上質とはいいかねますが。
■ my favorite of US Records 1960S-1970S 小尾隆 春日出版 2008/05/30 初版
期せずしてまたLPジャケットへのオマージュ本を入手した、こんどは ROCK だ 。
デザインというのが主眼だった BLUE NOTE とちがって、シンガー&ソングライターを中心とした ROCK
アルバムということになると、これはもうそのままリアルタイムなものばかりだから、思わず手が伸びた。
「懐かしさ」というキーワードを、できるだけ遠ざけるということを日頃から意識しているつもりだけれど、
これだけのコレクションを、目の当たりにすると、その想いがちょっと揺らいでしまった。
BLUE NOTE のように、原寸でないのが残念。
■ サヴォア邸/ル・コルビュジエ 中村研一 東京書籍 2008/05/30 初版
いまさらながらのサヴォア邸ですが、この本は、豊富な図面と撮りおろしの写真や、このサヴォア邸の
ためのコルビュジエのスタディ、そして概算見積りからコルビュジエの減額調整までが掲載されていて、
あらためてこの20世紀の名作といわれるこの住宅を勉強するには、最適の書といってもいいでしょう。
されどモダニズム、されどコルビュジエ。
温故知新。