少し長いけれど引用する。
体型は、羽根枕型。ふっくら焼き上がった切り餅の香りが立ちのぼりそうなすべっとさらっと
した肌。髪はショートのチリチリパーマ。顔はすっぴん、なべて丸顔。眉薄く八の字、目小さい。
お乳は小振りの滴型。ちょっと左右離れ気味だが、垂れ乳と称す程のボリュームはない。
乳頭は色薄くこぢんまり。突起が低い(陥没かと思われる例多し)。尻は丸四角。写植でいう
ナールの趣。乾パンふたつ並べた景。ウエストが、ない。でも、膝から下が、秋刀魚のように
スリム。方々から寄せ集まったにしては、何故かくも如実に浅草体型が確立するのであろうか。
オバチャンが一列に並んで、背中流しっこする様は、コアラのマーチさながらだ。ぱくり一口に
頬張りたい位、愛くるしい。 (饗の四 東京浅草「蛇骨湯」)
女体は、炊きたてコシヒカリ。つやつやぷりぷり、湯を珠と弾く。急傾斜なで肩、下半身なすび型
ぽってり充実。乳輪大きく、新竹の子の腰周りに似、堅そうに赤みを帯びて、くっきり粒立つ。
乳頭小豆大。ネルドリップ袋型垂れ乳。後姿、掛け軸の裏の如し、偏平尻。陰毛薄し、ぱやぱや
と間引かれたアルファルファ。下腹のボリュームに比し、肢はしんなり華奢。ことに足首から下は、
子供並に小さい。にんにくの皮を剥いたような、くるりんとした踵。鞘から弾ける枝豆の指五本。
掌にすっぽり入る、表面吉野葛仕立ての練り切り、初夏の茶菓の趣。纏足を想う。裸足フェチなら、
即座に脊髄へ電流が疾るだろう。 (饗の七 新潟県関川村「上関共同浴場」)
わし(わしとおぬしのわし)こと、杉浦日向子さんの銭湯めぐりの一節。
「舞妓さんの、おっぱい。」のその先である。
尻は写植のナールとか、乳輪はブランデーグラスの脚底部のサークルサイズとか、陰毛薄し、
ぱやぱやと間引かれたアルファルファとか、女のひとが生の女体を描写すること自体けっこう
珍しいことだけれど、こんな表現みたことない。
まさに metaphor の力。
■ 入浴の女王 杉浦日向子 講談社 19950920 第1刷
面白い、ひたすら新鮮。
避暑地の山中で読みはじめたら止まらない。
子供のころ友だちと待ち合わせた銭湯で(置き道具して毎日銭湯に通ってる友だちがうらやまし
かった)、番台のおばちゃんにお金を渡すときのあのワクワク感や、湯上がりに、専用のピンで
ビニールごと紙の蓋をはがして飲むコーヒー牛乳のうまさ、そして学生のころ通った京都寺町の
鄙びた銭湯の湯気の匂いや、はじめて入った東京の銭湯の信じられないあの熱さ。
この本を読んでいると、身体に残っているさまざまな銭湯(関西では風呂屋といったほうが気分
かもしれない)の記憶が、リアルによみがえってくる。
銭湯はいいョ、女湯じゃなくても。
キッチュなタイル絵、ケロリンの黄色い湯桶、今にも壊れそうな籐の椅子、坪庭の池にいる鯉、
ちょっと古ぼけた扇風機、大きなカンカン、木の鍵がついた下足箱。
すべてのパーツが、小ざかしい計算を越えて、一心不乱に、入浴という悦楽に向かってる。
人間の行為で、おもわず極楽昇天ボイスがでるのは、飲食と性交、そして入浴だけかもしれない
と、ふと思う。
「まず、行って、全身で、その地を味わってみさんせえ。理屈じゃねえ。言葉じゃねえ。湯から肌
へ、おもいがつたわる。頭じゃねえ。小手先じゃねえ。毛穴が知る情報がある。」
銭湯を貧乏臭いものに貶めたのは、「神田川」のちっぽけなセンチメンタリズムじゃないかと思う
けれど、1958年生まれのフォーク世代の人が、こうやって豪快に快楽装置と しての銭湯を、それ
もノスタルジイではなく、リアルタイムのものとして語っているのは、なんとも爽快だ。
世の中のあれこれには、いろんなモノサシがあるけれど、生きている人間にとっては、快楽原則
こそが、もっともナチュラルな行動原理なんだから、まずは自分にとって気持ちいいコトを考える
ことからしか、明るい未来ははじまらないんじゃないだろうか。
快適じゃなければ、地球なんてなくなったっていいんだ。
「極楽は、ちょっと手を伸ばせば届くとこにある。地獄は、うっかりよろけるその足下にある」
足下にある地獄は、どこへいっても無くなるものじゃないから、ちょっと手を伸ばして極楽のドア
をひとつずつ開けていくしかないよね、よろけないように気をつけて。
こういうけっして隠棲したり出家したり純文学したりしない funky な女流作家は(「若隠居」という
自称は、持病との闘いをカムフラージュする、いかにも江戸っ子的なシャイネスだったようだ)、
日本では稀有なだけに、夭折がとても惜しい。
ファンの間ではすでに傑作として名高いという、「百物語」と「百日紅」を、amazon でキャッチ。
なんとなく、うまくお付き合いできそうな予感がします。
*
■ アジア旅人 金子光晴/横山良一編 情報センター出版局 19980314 第1刷
ろくに読みもしないのに、金子光晴という名前にこんなに惹かれるのはどんな刷り込みなんだろう。
段ボールのケースに横使いの造本、横山良一という人が撮ったアンダー系の写真のキャプションの
ように、「ドクロ杯」や「マレー蘭印紀行」をはじめとする金子光晴のアジア放浪記や詩が重なる。
洗面器
洗面器のなかの
さびしい音よ。
くれていく岬の
雨の碇伯。
ゆれて、
傾いて、
疲れたこころに
いつまでもはなれぬひびきよ。
人の生のつづくかぎり
耳よ。おぬしは聴くべし。
洗面器のなかの
おとのさびしさを。
どこまで視えているのか、妻を連れた旅の途中でこんな独白ができる詩人の魂に、ひたすら感服。
■ 南青山ギャラリー物語 酉福店主青山益朗編 コエランス 20030415 初版
南青山という地名だけで、なにかしらソフィスティケーションの気配を漂わせているように思って
しまうのは、田舎者の僻目か、しかもギャラリー。
酉福という陶磁器を中心としたギャラリーで開催された個展の回顧録。
こんなしっかりした装丁の本を自社出版できるのは、かなりの余裕がないとできることじゃない。
写真がモノクロなのは愛嬌か。
資料的な価値はそれほどありませんが、本棚での存在感はなかなかのものです。
■ 対詩 1981.12.24-1983.3.7 谷川俊太郎/正津勉 書肆山田 19830615 初版1刷
谷川俊太郎と当時気鋭のアメリカ帰り正津勉との往復書簡形式の詩のやりとり。
付録の対談でも明らかなように、若手をチェックして、できればちょっと牽制しておきたいという
谷川さんのプロとしての本能の閃きがなければ成り立たなかった本ではないかと思います。
とても丁寧に造本されていたことと、書肆山田という版元の本がはじめてだったので買った本ですが、
80年代の本なので、こういった現代詩の詩集のなかにさえ、バブル夜明け前の雰囲気が漂っていて、
時代というものの不思議さを感じさせてくれます。
お互いに緊張感をもっていたはずなので、詩のクオリティもかなり高いのではないかと思います。
リラックスしているのは、もちろん谷川さんなんですが。
■ 横尾忠則の画家の日記 横尾忠則 アートダイジェスト 19870216 初版
最近ちょっと意識して集めている80年代クロニクル、横尾さんの80-87日記。
筆まめな人なので、ほとんど毎日の記録が残されていますが、この日記がはじまった80年は、彼が
ニューヨーク近代美術館で開催されていた「ピカソ展」に触発されて、グラフィック・デザイナー
から、画家への転身をした年ですから、彼にとってひとつのエポックだったんじゃないでしょうか。
1000P近い大著なので、流し読みしかできていませんが、どんなときもハードに制作をし、勉強を
欠かさないその姿勢には、いつもながら感心させられます。
個人的には84-86年のところで、知り合いが何人か登場するのが嬉しいところ。