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2008.07.11

there's no one like him

swing.JPG

DVDを買った。
ひょっとしたらこのメディアをちゃんと購入するのは、はじめてかもしれない。

■ 気狂いピエロ PIERROT LE FOU      ジャン・リュック・ゴダール  1965

きっかけは、ランボオである。

この前手に入れた金子光晴訳のランボオ全集を眺めているうちに、ゴダールのこの美しい映画
のラストシーンに、ランボオの詩が印象的につかわれていたのを思いだしたのだ。

自分を裏切ったアンナ・カリーナ(マリアンヌ)を撃った ジャン・ポール・ベルモンド(フェルディナン)
が自らのアタマをダイナマイトで吹っ飛ばし、その爆発の炎と煙をロングショットで捉えたカメラが、
ゆっくりとパンして南仏の海をとらえる、彼方に青い空。

そしてその水平線にアンナ・カリーナの物憂げな声がオーヴァーラップする。

── 見つかった、
── 何が?
── 永遠が、
── 海と溶け合う太陽が。

ヌーベルヴァーグのアイコン、アンナ・カリーナ(named by ココ・シャネル)とジャン・ポール・
ベルモンドが、まるでボニーとクライドのように(映画はこちらの方が後ですが)、破滅に向かって
進んでいくありさまを、あのゴダールが彼一流の大胆なカットと乾いた視線で鮮やかに、そして
切なく描いている。

顔に青いペンキを塗って、あれだけ否定していたピエロとして死んでいくフェルディナンの死に際が、
とてつもなく愚かしく、そして心に沁みる。

「勝手にしやがれ(A bout de souffle)」とならんで、ヌーベル・ヴァーグの白眉とされる1965年の
この映画は、今見ても頭がクラクラするくらい刺激的だった。

もうひとつランボオで印象的なのは、1983年のサントリーの CF だ。

誰もいない砂漠、あるいは荒野の光景。
火を吹く大男、天使の衣裳をまとった幼女、ジャグラー、軽業師、イグアナ、そしてナイフ投げ。
フェリーニや寺山修司を連想させるサーカスの幻想的な映像に、ナレーションが重なる。

その詩人は、底知れぬ渇きをかかえて放浪をくりかえした。
限りない無邪気さから生まれた詩。
世界中の詩人たちが蒼ざめたその頃、彼は砂漠の商人。
詩なんかよりうまい酒をなどとおっしゃる。
永遠の詩人ランボオ。
あんな男、ちょっといない。

(produce by 杉山恒太郎 / art direction by 高杉治郎 / copy by 長沢岳夫 / music by Mark Goldberg)

17才のときパリ・コミューンの中で「酔いどれ船」を書き、19才で「地獄の季節」、そして恋人の
ヴェルレーヌとの別れ、21才で詩を捨てて放浪し、あげくアラビアで武器商人になり、37才で片足を
骨肉腫で切断され、妹だけに看取られながら死んでしまった早熟の詩人ランボオ。

ヴェルレーヌだけじゃなく、中原中也も金子光晴も小林秀雄もボブディランもパティスミスもボウイも
メイプルソープもウォーホルもピカソもダリもケルアックもバロウズもヘンリーミラーもアナイスニンも
ピカビアも、みんなこの夭折した天才の ROCK にシビれた。

カッコいいから、たとえようもなく。

母音

Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音たちよ、
おれはいつかおまえたちのひそやかな誕生を語ろう、
A、無惨な悪臭のまわりを唸り飛ぶ、
きらめき光る蠅どもの毛むくじゃらのコルセット。

かげった入り江。 E、靄と天幕の白々とした無垢、
誇らかな氷河の槍、白い玉たち、繖形花のおののき。
I、緋の衣、吐かれた血、怒りにくるった、
あるいはまた悔悛の思いに酔った美しい唇の笑い。

U、循環期、緑の海の神々しいゆらぎ、
家畜の散らばる放牧場の平和、学究の
広い額に錬金の術が刻む小皺の平和。

O、甲高い奇怪な響きにみちた至高の喇叭
諸世界と天使たちがよぎる沈黙
―― おおオメガ、あの人の眼の紫の光線!

(粟津則雄 訳)

ランボオのこのサイケデリックで難解な詩に、アルコールや大麻やオピウムといった麻薬による
覚醒の記憶があることは間違いないけれど、そのコトバの一粒一粒には、十代の、それも才能の
ある者にしか視えない宇宙とのブルータルな交感がある。

どんな17才にだってそういう感性が宿る一瞬はあるのかもしれないけれど、それを奇跡ともいえる
タイミングで引き寄せることができるのは、選ばれた者にしかできないことだ。

ROCK に殉じた Janis Joplin や Brian Jones や Jimi Hendrix や Jim Morrison のように、
この19世紀のフランスの詩人 Arthur Rimbaud にも、STONE JUNKY の称号を与えてあげたい。

でも、ひょっとしてスタローンじゃないほうのランボオ(ジョン・ランボーも、実はランボオへの
オマージュだそうだけれど)なんて、もはや死語の領域かもしれないな。

*

■ 朝鮮とその芸術       柳宗悦   春秋社    19720520 新装版第1刷

「民芸」って柳宗悦さんの見立てのことじゃないのかと思う。

対象となるアイテムは庶民の日常具だけれど、それを道具本来としては捉えず、その無名性を
主調とする芸術として彼が見立てたものだけが、民芸と呼ばれる。

この朝鮮の芸術にしても、それをそのまま受け入れたんじゃなく、独自のフィルターをかけて、
彼が再解釈できたものだけを絶賛しているように思えてしかたない。

なんにせよ新しい美を発見したことは間違いないから、その功績は素晴らしいものだけれど、
その「美」がユニバーサルにならなかったのは、「見立て」を再構築して誰にでもわかるモノサシ
が造れなかった(造らなかった)からじゃないんだろうか。

柳さんが無印良品を見たら、なんていうんだろう。

■ MAGNUM DEGREES         phaidon Inc.     20031218

写真家集団マグナムの写真集、分厚い。

マグナムの一番の功績は、写真はアートディレクターや編集者のものではなく、それを撮った写真
家のものであるということを、インターナショナルなレベルで認識させたことじゃないかと思う。

ただどのムーブメントにもあることだけど、60年の歴史を経て、革新的集団がエスタブリッシュメント
になってしまったことが、ひとつのジレンマかもしれない。

世界の主要雑誌に掲載された報道写真がメインのこの写真集を眺めていると、そのまま20世紀の
クロニクルを見ているような思いにとらわれてしまう。

でもそれが必ずしもいいことだと断言できないところがアートの難しいところで。

■  ビートニクス   コヨーテ、荒地を往く     佐野元春    幻冬社   20070911 第1刷

佐野元春にあんまり興味あるわけじゃないけれど、ビートニクスはちょっと見過ごせない。

いまどきギンズバーグやスナイダーやケルアックに熱心なミュージシャンなんてちょっと変態的。

ビートは面白いけど、ピッピーはどうもあんまりっていうのが、この人の立ち位置なんだろうな。
そのへんがいかにも佐野元春っていう感じだけど、まあそれもアリかと思ったり。

「Kerouac His Hometown of Lowell」というジャック・ケルアックの生地を訪ねた短いドキュメント
のDVDが特別付録でついていました。

それにしても「ニュービートジェネレーション」っていったい誰のことなんだよ。

■ 打ちのめされるようなすごい本    米原万里    文藝春秋   20061130  第4刷

未読、でもチラ見だけで技量はわかる。

Amazonのレヴュワーたちのように、癌を患いながらも好きな本を読み続けることがそんなに凄い
ことだとは思わないけれど、書き手としてのこの人の手練は、この本のそこかしこに現れている。

書評ってけっきょくしっかりとした視点を持っているか、もっといえばものごとを自分の頭でちゃんと
考えられるかどうかどうかで評価が決まってしまうものじゃないかと思うけれど(新聞の書評なんか
を読んでいても、もっともらしくいい加減なことを書いている人がほとんどですから)、肝の据わった
女性は、男以上にブレないということがよくわかる。

いい書評の問題は、読まなくてもわかったような気にさせてしまうことと、読みたくて我慢しきれなく
なるなることを同時に読んだものに味わわせてしまうことだから、そういう意味では大合格。

タイトルはあまり気に入らない(ご本人が存命ならこんなタイトルにはなっていないだろう)が、
この本がそうなんだという編集者の気持ちはよくわかる。

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